6月3日 <日野俊基、鎌倉で処刑される(1332年=元弘2)>

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1332年(元弘2)のこの日、正中の変及び元弘の変の首謀者として捕らえられた日野俊基は、鎌倉の葛原岡で処刑されました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

朱子学を学んだ後醍醐天皇は1318年(文保2)に即位すると、政治に強い意欲を示し、1321年(元亨元)には父の後宇多上皇の院政を退け天皇親政を行いました。家格にとらわれず人材を登用し、記録所の機能を盛んにするなど平安時代の延喜・天暦の時代に範を求めました。

そうした後醍醐天皇は、倒幕の意向を固めていったのでした。

 

近臣の日野資朝・日野俊基らと倒幕の計画を練り、山伏に身をやつした俊基を遣わして各地の情勢を調べさせた後醍醐天皇は、1324年(正中元)、無礼講と称する会合を開き、僧游雅(ゆうが)・玄基・足助重成・多治見国長らと謀議を重ねて計画を固めました。

その内容は、9月23日に行われる北野祭で例年発生する喧嘩騒ぎに乗じて六波羅探題北条範貞を殺め、山門・南都の衆徒に命じて宇治・勢多を固めるというものでした。

ところが、この計画は、六波羅探題にバレてしまい、9月19日土岐頼貞・多治見国長は六波羅軍に敗れ自害し、資朝・俊基も捕らえられました。その後、両名は鎌倉で吟味を受け、資朝は佐渡に流刑に処されましたが、俊基はゆるされて帰京しました。また、後醍醐天皇は側近の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)に釈明書をもたせて鎌倉に遣わせ、陳弁につとめ、処分を免れました。この時は、幕府は寛容でした。

 

でも、これしきの事でへこたれる後醍醐天皇ではありませんでした。一旦は頓挫したものの、天皇の倒幕の思いは固かったのです。

天皇は護良(もりよし)・宗良(むねよし)両親王を延暦寺の座主に任じ、僧兵の力を引き寄せようとしました。また俊基はまたまた山伏の姿に身をやつし、畿内の武士を説いてまわりました。

しかし、1331年(元弘元)4月この計画も天皇の身を案じ、また武力での倒幕に反対する近臣吉田定房(よしださだふさ)の密告によって露見し、首謀者の俊基・文観(もんかん)らは六波羅探題によって捕らえられてしまいました。同年8月、天皇は京都を脱出し、奈良を経て山城国の笠置’かさぎ)に拠りましたが、関東から派遣された幕府の大軍の攻撃によって敗退し(笠置山の戦い)、また天皇に呼応した楠木正成(くすのきまさしげ)の赤坂城も落城し、天皇は捕らえられました。

 

鎌倉幕府は1332年(元弘2)3月に後醍醐天皇を隠岐へ配流し、また数名の近臣もまた流罪に処しました。首謀者のかたわれの文観は硫黄島に配流されています。

そして、同年(1332年)のこの日、鎌倉に送られた日野俊基は鎌倉の葛原岡で斬首の刑に処せられました。また、佐渡に配流されていた日野資朝もまた、その前日6月2日に佐渡で斬首の刑となりました。

 

とまぁ、ここまでの動きを元弘の変と呼ぶこともありますが、天皇の配流、首謀者の処刑によってこの事件が鎮圧されたワケではありませんでした。その後も幕府への抵抗運動が続きますが、それについてはまた別の日にご紹介できれば、と思います。

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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