6月30日 <花岡事件発生(1945年=昭和20)>

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1945年(昭和20)のこの日、秋田県の花岡鉱山で、強制労働中の中国人労務者が蜂起し収容所を脱走し、脱走者は警察、警防団、憲兵らに捕らえられ、その際、約113人の中国人が命を落としました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

この花岡事件について記述する前に、「中国人強制連行問題」に付いて触れておくべきかと思い、少しスペースを割きますね。

「中国人強制連行問題」というのは、第2次世界大戦の末期、中国華北より中国人4万人を日本内地に強制連行し、劣悪な条件のもとで重労働を課したという人道的に問題ことが行われたのです。

東条内閣は1942年(昭和17)11月27日の閣議で、「華人労務者内地移入ニ関スル件」を決定しました。徴兵によって労働者が不足していた日本国内における鉱山・荷役といった職場に労働力を補うための措置でした。

強制連行の対象は「訓練セル元俘虜又は元帰順兵ノ外募集ニ依ル」とされていました。日本に連行された中国人は38,939名で、その大部分は華北労工協会の取扱で、その70%が事実上農村などから拉致された「行政供出」でした。連行された中国人は日本国内35社135事業場に割り当てられ、石炭採掘・発電所建設など鉱工業・土建業で過酷な労役を強いられました。

 

そうした中で起きたのが今回の記事の花岡事件です。

1945年(昭和20)のこの日、秋田県北秋田郡花岡町(現・大館市)の花岡鉱山の鹿島組作業所で中国人労務者が蜂起しました。

 

花岡の鹿島組作業所では1944年(昭和19)8月から強制連行された中国人を花岡川の水路変更工事に従事させていました(1944年8月:294人、1945年5月:587人、同年6月98人を配置)。その労働者たちは饅頭1個とふき1本のみの食事で、苛酷な労働や不当な虐待を受けていました。そうした待遇に憤激した中国人は1945年(昭和20)のこの日、一斉に蜂起し、日本人係員4名と中国人1名を殺害して逃走したのです。

 

日本側は警察、警防団、憲兵を動員して同年7月3日までに殆ど鎮圧し、792名を逮捕しましたが、拷問などのために113人が命を落としました。

蜂起の指導者耿諄ら11人に対して、秋田地方裁判所は日本降伏後の同年9月11日無期懲役以下の判決を下しました。同年11月には中国人生存者中531人が帰国しました。配置以来の死亡者総数は418人(42%)でした。

 

1951年(昭和31)5月、地元住民を中心に現地に「日中不再戦友好碑」が建立されています。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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