6月5日 <西鶴、マラソン独吟で大記録達成(1684年=貞享元)>

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1684年(貞享元)のこの日、井原西鶴は独吟一昼夜で2万余句の大記録を達成しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

井原西鶴は、浮世草子における名作の数々が思い出されます。浮世草子というのは、近代小説の一つの様式です。

 

西鶴が、その浮世草子の作家としてデビューしたのは1682年(天和2)に書かれた「好色一代男」を著した40歳の時でした。それまでは俳諧の分野に身をおいて、自由奔放な作句を行い、大いに才能を誇示しましたが、俳諧そのものの芸術性を高めるという実績は残せませんでした。

 

しかしながら、西鶴は俳諧でとんでもない偉業を達成したのです。

 

1684年(貞享元)6月5日、西鶴は大坂の住吉神社で大矢数俳諧興行を催し、数百人が見守るなか一昼夜のマラソン独吟を行いました。詠んだ歌の数は、何と

 

23,500句!

 

でした。これは4秒に1句を詠むという超絶なハイスピード独吟なんです。

 

現代なら、その詠んだ歌を記録に残すなんてことは造作も無いことですが、江戸時代には無理な相談です。そこで、その日の興行で記録に残っているのは

「俳諧の 息の根とめん 大矢数」

という初句だけで、そのあとは記録者が紙にただ棒線を引いただけだそうです。

 

西鶴はこのような、一昼夜の間に読む句数を競う矢数俳諧のオリジネーターで、彼自身それを得意としていました。この矢数俳諧とは、京都三十三間堂において行われる大矢数に倣ったもので、通し矢の最高記録保持者が天下一の名誉を許されるのと同様、俳諧における速吟日本一を狙ったものでした。

 

 

この1684年(貞享元)の興行は、西鶴にとって3回目のことでした。1回目は1677年(延宝5)3月、大坂の生國魂神社で一昼夜1,600句独吟を達成しました。

 

ところが、同年9月に月松軒紀子が1,800句で西鶴の記録を更新。さらに1679年(延宝7)には大淀三千風が3,000句を達成。

 

と西鶴の記録が更新されていったため、西鶴は1680年(延宝8)に生國魂神社内で4,000句独吟を達成し、そしてダメをおすように今回の興行を行って前人未到の一昼夜23,500句独吟の偉業を成し遂げたのです。

 

この興行以後、西鶴は別号として二万翁と自称したそうです。。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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