1869年(明治29)のこの日、山県有朋特派大使はロシア外相のロバノフと朝鮮に関する議定書に調印しました(山県・ロバノフ協定)。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
5月31日に書いた義和団事件に関する記述を一部引用して、今日の記事をスタートさせます。
↓記事引用ここから
19世紀末期、日本がようやく近代国家を形成したころ、欧米の先進資本主義諸国は早くも帝国主義段階に突入しようとしていました。
帝国主義の言葉の意味です。
帝国主義(ていこくしゅぎ、英語: imperialism)とは、一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策。
(Wikipedia「帝国主義」から引用)
諸列強は販路を海外に広げ、また直接に資本を輸出して利益を収めるためにこぞって積極的な対外進出政策をとり、植民地獲得を競い合いましたが、その矛先はアジア・アフリカなどの発展途上諸地域に向けられていました。
↑ここまで
日本にとって、とくに脅威だったのがロシアの動きでした。
日本は日清戦争によって「朝鮮の独立」を清國に認めさせ、”利益線”たる朝鮮から清國の勢力を排除しましたが、三国干渉による日本の威信低下に乗じて、ロシアが朝鮮に勢力を伸ばし、1895 年(明治28)7月、親露派政権がつくられました。
同年10月、日本公使三浦梧楼(みうらごろう)や 日本の軍人・壮士らが中心となり、大院君を擁立してクーデタを強行し、閔妃政権を打倒して親日派政権を樹立させました(閔妃殺害事件)。
しかし、翌1896年(明治29)2月、三たび政変がおこって 朝鮮国王はロシア公使館に移り(露館播遷。ろかんはせん)、ロシアを後ろ盾とした政権が発足し、多くの親日派要人が処刑されました。
その後、日露両国は1896年(明治29)年に山県・ロバノフ協定、1898年(明治31)に西・ローゼン協定などを結んで朝鮮(韓国)における利害の調整をはかりました。
この山県・ロバノフ協定が調印されたのが1896年(明治29)6月9日でした。その日、ロシア皇帝戴冠式に出席した山県有朋はロシア外相のロバノフと調印した朝鮮に関する日露協定には以下の項目が定められていました。
- 両国合意による朝鮮財政改革援助
- 軍隊警察組織の朝鮮への一任
- 日本の京釜電信線管理とロシアの電信架設権留保
- ロシア陸戦隊の王宮護衛
日本は、韓国をなんとか勢力下に収めようとしましたが、その目的は十分には達成されず、韓国問題をめぐる日露の対立はしだいに深まっていったのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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