7月10日 <伊能忠敬の沿海地図、幕府に献上(1821年=文政4)>

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1821年(文政4)のこの日、伊能忠敬の指揮した測量隊の測地結果を使用した「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」が伊能忠敬の孫忠晦(ただのり)らの手で仕上げられ、江戸幕府に献上されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

50歳で隠居した伊能忠敬は、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)から江戸深川黒江町に転居し、幕府天文方の高橋至時(たかはしよしとき)に師事して天文学を修めました。

緯度1度の里数確定を期し、師の助力で幕府の許可を得て、1800年(寛政12)奥州道中と蝦夷地東南沿岸を測量し、同年に略図を呈上しました。期待に応える測地成績・地図作成で幕府の評価は高く、忠敬は、以後1814年(文化11)まで沿岸中心に全国を測量しました。

その後半生をかけた実測にもとづく日本全図「大日本沿海輿地全図」を仕上げるべく整理・浄書の途中、忠敬は1818年(文化15)4月13日に74歳で世を去ってしまいます。忠敬の喪は秘され、さらに高橋至時の子の高橋景時を中心に弟子たちによって三年間の時をかけて作業は続けられました。

 

1821年(文政4)のこの日、高橋景保と、忠敬の孫伊能忠晦(ただのり)らは登城し、地図を広げて上程したのでした。その「大日本沿海輿地全図」は

  • 大図214枚…縮尺1:36,000
  • 中図8枚…縮尺1:216,000小図3枚…縮尺1:432,000

にからなり、それに「大日本沿海実測録」を添えて幕府に献上されました。

そして9月4日、忠敬の喪が公にされました。

 

1864年(元治元)頃、開成所でこの「大日本沿海輿地全図」の小図に琉球・小笠原諸島などを加え、別に樺太図を併せ、4枚セットで「官板実測日本地図」を刊行し、パリ万博に出品しました。

また幕府の軍艦の航海用にも使用されたそうですが、広く流布せず、明治維新後の1870年(明治3)大学南校で修正再刊後、新政府の国土基本図として20世紀まで重用されました。

 

この大日本沿海輿地全図に関して幕末にあった有名なエピソードがあるのでご紹介しておきますね。

開国後の文久元年(1861年)、イギリス海軍の測量艦アクテオン号(Actaeon)が、「攘夷派をあまり刺激しない方が良い」との幕府の勧告を無視して日本沿岸の測量を強行しようとした際、たまたま幕府役人が所有していた伊能小図の写しを見て、その優秀さに驚き、測量計画を中止して幕府からその写しを入手することで引き下がったという。なお、このときの伊能図の写しを元に1863年にイギリスで「日本と朝鮮近傍の沿海図」として刊行され、日本に逆輸入されて、勝海舟(1823年 – 1899年)の手によって慶応3年(1867年)に「大日本国沿海略図」として木版刊行された。これにより伊能図を秘匿する意味がなくなったため、同年には幕府開成所からも伊能小図を元にした「官版実測日本地図」が発行され、小図のみとはいえようやく一般の目に供されるようになった。

(Wikipedia「大日本沿海輿地全図」から引用)

 

当時の先進国のイギリスもビックリの出来の良さだったのですねぇ。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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