7月14日 <廃藩置県の詔書下される。筆頭参議の西郷どんも活躍(1871年=明治4)>

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1871年(明治4)のこの日、西郷隆盛を筆頭参議とする明治政府は廃藩置県を断行し、明治天皇は、在京の諸藩知事(旧大名)を宮中に招集して、「藩を廃し、県を置く」旨の詔書を一方的に下達しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

廃藩置県は、

「藩体制を解体し郡県制に移行した明治初期の政治改革」

ですが、この郡県制への移行は江戸末期頃から王土王民の思想に基づいて論じられてきた問題で、明治新政府にとっても喫緊の課題でした。

 

1869年(明治2)6月の版籍奉還、翌1870年(明治3)9月の藩制改革などによって、政府は徐々に藩に対する統制を強めていきました。

また、それと同時に財政悪化などのために自発的に廃藩を願い出る藩も出始め、1869年(明治2)12月の吉井・狭山両藩を皮切りに、1871年(明治4)6月までに14の藩が廃藩を願い出たのです。

明治新政府が行ったその他の様々な施策により、藩過越の対立や新政府への反抗的風潮が現れ、また庶民の間にも不満の気運あ起こり、各地で不平士族や農民らの一揆などの不穏な動きで地方は動揺していました。

そこで、明治新政府は国内の安定化を図り、強力で集権的な政府を樹立する必要性に迫られたのです。

 

1871年(明治4)2月薩長土3藩からの献兵による御親兵を設置し、その武力を背景に同年の今日、廃藩置県を断行しました。

当日、天皇は、在京の諸藩知事(旧大名)を宮中に招集して、「藩を廃し、県を置く」旨の詔書を一方的に下達しました。その廃藩置県の詔書はWikisourseに原文がありますので以下に引用してきます。なお、このWikisourseへのリンクは下の引用部分の「廢藩置縣ノ詔書」に貼り付けてあります。旧字体で原文を見ることが出来ますよ。

朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシムヘシ朕嚢ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ各其職ヲ奉セシム然ルニ数百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ

(Wikisourse「廢藩置縣ノ詔書」から引用)

 

この廃藩置県により、政府は一挙に藩を廃止し、県を設置しました。同時に、これまでの知藩事を罷免して東京に住まわせることにし、かわって政府から官吏を派遣して県知事に任命しあした。始めは300以上あった府県は、同年11月、区域を整理統合し3府72県となりました。

 

この廃藩置県の実施にあたり、薩摩の西郷隆盛を筆頭参議とする明治新政府は関係者で何回も密議をかさねて来ました。なかには、この大改革を危ぶむ声もありましたが、そうしたとき、西郷隆盛は

「反対論者は自分が兵を率いて断固討つ」

と言ってこの断行を押し進めたのでした。

この廃藩置県が上手く受け入れられた背景については、また来年書きたいと思います。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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