1940年(昭和15)のこの日、
これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
米内光政内閣の総辞職後、総理の大命を受けた近衛文麿は組閣を前にして、1940年(昭和15)のこの日、東京府東京市杉並区荻窪の私邸(荻外荘)で会議を行いました。
近衛のほか、外・陸・海相に予定された松岡洋右、東條英機(陸軍中将)、吉田善吾(海軍中将)が出席し、当事者は四柱会議と称したそうですが、一般には荻窪会談と呼ばれています。
会談は、松岡の提出した原案を一部修正のうえ、新内閣の基本方針とすることで合意しました。会談の覚書には以下の四項目が記されています。
- 戦時経済政策の強化確立を内外政策の根基とし、政府が一元的に経済活動を指導すること
- 対世界政策
- 支那事変処理
- 国内体制の整備
日独伊枢軸の強化、ソ連を日満蒙間国境不可侵協定の締結、東亜における英・仏・蘭・葡植民地の東亜新秩序編入、東亜新秩序への米の実力干渉排除を対外方針として
重慶国民政府との和平条件として東亜共同防衛の具現、東亜経済圏の確立を支那事変処理として
新政治組織の結成、総理直属の審議機関の設置を対内方針として挙げました。
この方針は、欧州において英が敗勢となっているのを背景にして、日独伊三国枢軸の強化、南方進出の促進を目論む近衛内閣の基本姿勢といえるものでした。
その近衛内閣は同月22日に成立し、「基本国策要綱」「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」として、荻窪会談の合意内容を具体化しました。
この荻窪会談の写真がWikipediaにあったので、無断借用してきました。写真は左から近衛文麿次期総理、松岡洋右次期外相、吉田善吾海相、東條英機次期陸相です。写真または下の青文字からWikipediaの画像が見られます(余り大くはありません)。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
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