7月22日 <「浦上一番崩れ」が起こる(1790年=寛政2)>

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1790年(寛政2)のこの日、肥前国浦上村山里の村民のうち19名がキリシタンとして逮捕されました。この「崩れ」というのは検挙事件のことをいいます。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

「浦上崩れ」というのはキリシタン発覚事件のことで、冒頭にも書きましたがこの「崩れ」は検挙事件のことを言います。

事件の舞台となった肥前国彼杵郡浦上村山里(現・長崎県長崎市)の農民の多くは、慶長期以前からキリシタンであり、キリスト教信仰が弾圧されるようになってから、諸藩のキリシタン武士が信仰の安住の地を求めて浦上に移住し、農民となったものも少なくありませんでした。

それが疑われ、または発覚して事件になったものが、江戸時代中期から明治時代初頭にかけて以下に挙げる4回発生しています。

  • 1790年(寛政2):浦上一番崩れ
  • 1842年(天保13):浦上二番崩れ
  • 1856年(安政3):浦上三番崩れ
  • 1867年(慶応3):浦上四番崩れ

今回の記事は、一番最初に起こった浦上一番崩れのことです。

1790年(寛政2)に浦上村の庄屋高谷永左衛門・高谷正蔵らが自身が信仰していて、弘法大師霊場となっていた円福寺に88体の石仏を建立しようと計画し、その費用の一部を村民に寄進させようと迫ったのですが、多くの村民はそれを拒否したのです。そこで同年のこの日、庄屋は村民のうち19名をキリシタンとして告発したのでした。

ところが、証拠がないため、さらには庄屋による代官所役人の抱き込みによる汚職事件なども起こり、この19人は釈放され、高谷永左衛門は免職となりました。

ところが、その後また15人が訴えられ、最終的に1795年(寛政7)になって村人は証拠不十分で無罪となり、その村人たちは円福寺の本寺にあたる延命寺に「心得違い」を改めて加持祈祷を熱心にするという一札を入れて落着しました。

 

ところで、このクソ庄屋の高谷永左衛門のことですが、Wikipediaに興味深いことが書いてありましたのでご紹介します。

なお、永左衛門の子孫は明治維新後に没落し、その屋敷地は浦上四番崩れ(浦上教徒事件)で迫害の後に帰還を許された浦上のキリシタンたちによって買い取られて浦上天主堂の元となった。

(Wikipedia「浦上一番崩れ」から引用)

キリシタンによくよく縁があったのですねぇ。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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