7月23日 <壬午軍乱が起きる(1882年=明治15)>

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1882年(明治15)のこの日、大院君の企てたクーデターによって漢城(現・ソウル)の日本公使館が襲われました・

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1880年代初め、朝鮮国内では近代化を目指す閔妃派の政府は、日本から軍事教官に堀本礼造陸軍工兵少尉(当時)を招き、新式軍隊(別技軍)を訓練・育成しました。ところが、旧式軍の兵卒は給米への不満からこれに反感をいだいていました。

引退中の保守的な王父の大院君はクーデターを企て、不満を抱く旧軍人を扇動して、1882年(明治15)のこの日、漢城(現・ソウル)民衆を含め暴動をおこしたのです。

クーデター軍は閔謙鎬(びんけんこう)ら閔妃派の高官らを殺害し、そして昌徳宮に乱入、堀本礼造を亡き者にし日本公使館を襲いました。

公使館は焼き討ちに遭い、花房義質(はなぶさよしとも)公使ら28名の公使館員は仁川に脱出し、イギリス測量艦で長崎に急航しました。

これが、壬午軍乱と呼ばれる出来事です。この壬午軍乱は壬午事変・京城事変とも呼ばれます。

 

この壬午軍乱は、清国の出兵によって鎮定され、日本政府は居留民保護のため軍艦を釜山に送り、花房公使に護衛兵と軍艦を付けて朝鮮政府との交渉に臨ませ、同年8月30日、済物浦条約を締結しました。この条約により、日本は朝鮮へ守備兵を駐留させることを認めさせました。

この事変に対する日本国内の反響は大きく、軍備拡張論が叫ばれました。また、閔妃派はこのあと急速に清国に接近していくことになり、その一方で金玉均・朴泳孝ら開化派(独立党)は専制政治を打破し国内の改革を行うため日本に接近し、きな臭い雰囲気が続くのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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