8月22日 <江戸幕府、山県大弐らを処刑。明和事件(1767年=明和4)>

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1767年(明和4)のこの日、江戸幕府は山県大弐(やまがただいに)とその同居人藤井右門を、幕府への謀反を企てたとして死刑に処しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今回の記事で取り上げたのは明和事件と呼ばれる出来事で、江戸時代中期に軍学者の山県大弐らが処刑された事件です。

 

出来事の経緯は、まぁ何とも変な話なのですが…

江戸八丁堀で塾を開いて儒学・軍学の教授をしていた元甲府与力の山県大弐の門人で上野国小幡藩家老吉田玄蕃(よしだげんば)という武士がいました。その玄蕃が、同藩用人松原群大夫との私怨によって藩から処罰される出来事がありました。大弐の門人桃井久馬・宮沢準曹らは、禍いが自分に及ぶことを怖れて、大弐に謀反の企てがあると老中に直訴するとともに町奉行所に出訴したのです。

そのため幕府は、1766年(明和3)に大弐と、大弐方に寄宿していた藤井右門とを捕縛し、8ヶ月にわたって取り調べ、その言動が忌諱に触れたとして大弐を死罪、右門を獄門という極刑に処したのです。

 

山県大弐は、この事件の数年前1759年(宝暦9)に「柳子新論(りゅうししんろん)」という書籍を著しています。尊王斥覇(そんのうせきは)の立場に立つ山崎闇斎学派と、尚農卑商論・礼楽制度論の立場から現実の社会矛盾と為政者の責任倫理を強調した荻生徂徠の思想とを結びつけたものです。神武以来の天皇家と藤原氏による政治を中国古代の理想世に劣らぬものと讃え、保元・平治の乱以後の武家政治の腐敗を批判し、朝廷が政権を担当すべきである尊王論を説いたこの著書の過激な内容は、古い儒学者たちを驚かせたそうです。

 

山県大弐は上記のような主張はしていたものの、具体的に謀反を企てるようなことをしていませんでした。この明和事件は、山県大弐が、尊王論の立場から幕府を批判したことによる言論弾圧というのがその実態です。上野国小幡藩の内紛に巻き込まれ、とんだとばっちりを喰った山県大弐は哀れでもありますねぇ。

 

それと、この明和事件、思わぬところに飛び火します。宝暦事件で伊勢国に流され蟄居していた竹内式部が藤井右門と関係していたことから、竹内式部も連座して伊勢から八丈島に遠島に処せられてしまったのです。

この竹内式部については別記事

5月7日 <竹内式部、追放の憂き目に遭う。宝暦事件(1759年=宝暦9)>

を併せてご笑覧いただければ幸いです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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