8月30日 <赤松氏の遺臣、主家再興を果たす(1458年=長禄2)>

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1458年(長禄2)のこの日、嘉吉の乱で滅ぼされた赤松氏の遺臣が、南朝に奪われていた神璽(しんじ)を奪回した功で、赤松義雅の孫法師丸政則(のちの赤松政則)に家督が安堵されました。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今回の記事を書くにあたり、まず嘉吉の乱について触れなければなりませんが、ごくごく簡単に留めます。というのも嘉吉の乱の発端については拙Blogの別稿で記事にしているからです。こちらも併せてご笑覧ください。

6月24日 <くじ引き将軍足利義教、赤松満祐に討たれる。嘉吉の乱(1441年=嘉吉元)>

 

赤松満祐(あかまつみつすけ)は、守護大名として確固たる地位を築いていましたが、室町幕府第6代将軍足利義教が満祐の弟義雅の所領を没収するなど赤松本宗家を圧迫したのです。そのため、満祐は嫡子教康らと図り、1441年(嘉吉元)6月義教を自邸に招いて亡き者にしてしまいました。その後、満祐は本国の播磨国木山城に立てこもりましたが、山名持豊らの追討軍の攻撃で落城し、満祐自身も自ら命を絶ちました。嫡男教康は伊勢国司北畠教具(きたばたけのりとも)を頼りますが討ち取られてしまし、ここに赤松本宗家は断絶となったのでした。

 

嘉吉の乱で断絶となった赤松家では、満祐の遺臣たち(上月満吉・石見太郎・丹生谷帯刀左衛門と四郎左衛門の兄弟など)が主家再興の機会を伺っていました。

 

1456年(康正2)ころ、吉野では後南朝勢が尊秀王・忠義王を擁して三種の神器の一つである神璽を有していましたが、赤松氏の遺臣はこの神璽の奪回とひきかえに主家再興の許可がもらえるよう朝廷や幕府に申し入れていました。

そして1458年(長禄2)のこの日、神璽は京へと戻り、朝廷へ返還されたのでした。そして、室町幕府は、この神璽の15年ぶりの奪還成功の功により赤松氏の再興を許し、赤松義雅の孫の法師丸政則(のちの赤松政則)に家督が安堵されたのでした。

 

この神璽奪還は、遺臣たちの周到な計画、そして幾多のトラブルにもくじけずに達成されたことで、そこまでして主家再興の悲願を成し遂げるなんて、見事な忠臣だと思います。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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