8月1日 <甲子園球場の竣工(1924年=大正13)>

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1924年(大正13)のこの日、兵庫県西宮市の武庫川の支流を埋め立てた跡地に、東洋一の規模を誇る甲子園球場が竣工しました。

これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

甲子園球場は、阪神タイガースのホーム球場であるとともに、「春の甲子園(全国高等学校野球選手権大会)」「夏の甲子園(選抜高等学校野球大会)」と呼ばれる2大高校野球全国大会の開催球場です。それと、毎年12月に行われる全日本大学アメリカンフットボール選手権大会の決勝戦「甲子園ボウル」でも有名です。そのほか、大学野球でも使用されています。

残念ながら、小生はまだ野球を見るために甲子園球場を訪れたことがありません。

 

高校野球全国大会の開催球場は、最初は甲子園ではありませんでした。

1915年(大正4)に行われた第1回全国中等学校優勝野球大会(1948年に学制が新しくなった際に、旧制の中学校、高等女学校、実業学校を改組再編し高等学校となったので、それ以前は中学校です)は、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が作った豊中球場が使用されました。しかしながら、規模が小さく他の球場を探さざるを得ませんでした。

1917年(大正6)からは、阪神電気鉄道が所有していた兵庫県武庫郡鳴尾村(1951年に西宮市と合併)にある鳴尾球場が使用されました。しかし、学生野球が人気になるにつれ観客が増加し、同球場の仮設スタンドでは大勢の観客を収容しきれない様になっていきました。さらには、1923年(大正12)に行われた第9回全国中等学校優勝野球大会では、溢れた観客がグラウンドになだれ込み試合が中断するという事件が発生するほどでした。

この事件をうけて主催者でもあった大阪朝日新聞は、本格的な野球場の建設を提案し、これに阪神電鉄が応えました。

鳴尾村に流れていた武庫川の支流の申川と枝川を洪水対策のために廃川として、そこを埋め立ててできた河川敷を払い下げて貰い、大規模な沿線開発を進めていた阪神電鉄は、そこに住宅地・遊園地・スポーツセンターを建設する計画を立てていました。そのスポーツセンターの核が野球場であったのでした。

 

1924年(大正13)のこの日、アメリカのニューヨーク・ジャイアンツのホームグラウンドのポロ・グラウンズを参考に建設された球場が竣工しました。当初は枝川運動場という名称でしたが、その1924年(大正13)は、60年に1度しか無い十干十二支の最初の年である甲子年(きのえねのとし)という縁起の良い年であったことから甲子園大運動場と命名されました。起工式が同年3月11日で、竣工が同年8月1日だったので5ヶ月足らずで行われた突貫工事でした。

 

建設費250万円を掛けて作られたこの甲子園大運動場は、東洋一を誇る12,000坪(39,600㎡)で、観客収容人員5万人の大球場でした。甲子園球場の昔の写真がWikipediaにあったので無断借用しました。

 

<1935年(昭和10)当時の甲子園球場>

(Wikipedia「阪神甲子園球場」から借用)

 

この甲子園球場、1964年(昭和39)には、球場名を阪神甲子園球場に変更し現在に至っております。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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