8月26日 <浪速五人男、大坂で処刑される(1702年=元禄15)>

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1702年(元禄15)のこの日、大坂で「雁金五人男」「浪速五人男」などと呼ばれて人々に恐れられていたならず者が、市中引き回しのうえ獄門に処せられました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

歌舞伎・浄瑠璃の演目の中に「白浪物」と呼ばれるジャンルがあります。

白浪には盗賊という意味があります。その由来は「後漢書」の霊帝紀の中にあります。後漢の末,黄巾の乱の残党が賊となり西河の白波谷に隠れて,財宝略奪を事としたのを,時の人が白波賊(はくはぞく)と呼んだ故事からきていますが、それを訓読みにして(しらなみ)と言ったのです。

で、その白浪、すなわち盗賊を題材とした歌舞伎戯曲、あるいは講談を「しらなみもの」と呼びます。もともとは実録の一分野としてスタートしたこの発端となった出来事が今回の記事のネタです。

元禄後期、大坂で雁金文七を頭とする五人組のならず者が居まして、「雁金五人男」「浪速五人男」などと呼ばれて人々に恐れられていました。その乱暴狼藉を働いて人々を苦しめていたのは

  • 雁金文七(かりがねぶんしち)
  • 庵の平兵衛(あんのへいべえ)
  • ほてゐの市右衛門(ほていのいちえもん)
  • 極印千右衛門(ごくいせんえもん)
  • 神鳴庄九郎(かみなりしょうくろう)

の5人でした。

 

1701年(元禄14)6月6日の夜、大坂南宝久町四丁目の河内屋五兵衛の雇い人喜兵衛が家業をしまって、三木屋の下人五郎助とともに夕涼みにでて西横堀を通りかかると、ならず者に突き当たられ、避けて帰りかけたところを、追ってきたならず者に切りつけられて重傷を負いました。

ならず者の中にいた庚申の勘兵衛という者の顔を知っていたことから関連者が捉えられ、それにつれて多くの無頼の徒が捕縛されました。

雁金文七は、この時のならず者一斉検挙が始まると、摂州星川村にある伯父三郎兵衛方へ一旦身を隠しましたが、その後大坂に戻り、同年6月19日に捉えられました。浪速五人男の他の者も捉えられ、翌1702年(元禄15)のこの日、町中引き回しのうえ道頓堀の千日前で死罪・獄門となりました。死罪にならなかった者には、牢死した者や追放刑になった者も居ました。

獄門となった5人の獄門首のそばに立てられた捨て札には、次のように書いてあったそうです。

此者ども大脇差さしあるき、又は懐脇差を持ち、町中にて度々あばれ、手を負せ、町人共に難儀致させ候科(とが)によって獄門に行ふものなり

 

彼らが刑死して二週間も経たない9月9日には、浄瑠璃太夫岡本文弥(おかもとぶんや)が「雁金文七」の外題できわもの浄瑠璃を上演し、さらに13日には「難波五人男」が宇治加賀太夫座で上演されて大当たりとなったのをはじめとして、浄瑠璃・歌舞伎・小説に取り上げられました。

時代は下って1730年(亨保15)に江戸中村座で上演された「名月五人男」では5人は侠客とされ、そのせりふは江戸中に流行したのです。1742年(寛保2)の竹田出雲の浄瑠璃「男作五雁金(おとこだていつつかりがね)」は大坂の竹本座で上演され、文七は侠客の代表者の一人にされて、のちの「白浪五人男」などの五人男の始祖となったのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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