9月16日 <大森貝塚の発掘が始まる(1877年=明治10)>

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1877年(明治10)のこの日、アメリカの生物学者エドワード・モース(1838-1925)によって、わが国の考古学発祥の地とでもいうべき東京の大森貝塚の学術的発掘が開始されました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1877年(明治10)のこの日、アメリカの生物学者エドワード・モース(1838-1925)によって、わが国の考古学発祥の地とでもいうべき東京の大森貝塚の学術的発掘が開始されました。

 

貝塚は、東海道本線沿線の大森駅と大井町駅との中間にありましたが、現在では、1929年(昭和4)に本山彦一と大山柏、翌1930年(昭和5)の佐々木忠次郎によってそれぞれ別の地点(大田区と品川区)に立てられた二つの記念碑が、わずかに往時を偲ばせるに過ぎなくなっています。

 

腕足類の研究のために、単身日本を訪れたモースは、この年6月横浜に上陸し、数日滞在したのち東京に向かいました。その移動の途中の車窓からこの貝塚を発見したといわれます。

 

その後、モースは東京帝国大学の生物学科の御雇教師(おやといきょうし)として迎えられ、9月16日にはじめて線路沿いに貝塚に足をはこんで本格的な発掘を開始しました。日本人では佐々木忠次郎、松浦佐用彦、飯島魁(いいじまいさお)らの学生が助手としてこれに参加している。

 

当時、どの地域が、どの範囲にわたって発掘されたかは現在では知るよしもありませんが、11月までのあいだに、線路にそってかなり広範な発掘調査がおこなわれたようです。その調査によって、ハイガイ・アサリを主として、土器・石器・装身具・土版。骨角器・人骨など豊富な遺物が出土しました。

 

貝塚では、貝の石灰分のおかげで骨や歯など内陸の遺跡では残りにくい自然遺物が残るため、当時の人間の生活全般について多くの情報を得る事ができるのです。大森貝塚はその出土品からして、主として縄文時代後期に属することが判明しましたが、1879年(明治12)には遺物の正確な実測図、詳細な分類・考察を加えた「Shell Mounds of Omori」がまとめられ、矢田部良吉によって「大森介墟古物篇」として訳されました。これは、わが国最初の遺跡発掘の学術報告書として高く評価されています。

 

二年間の滞在で日本考古学の端緒を開いたモースは、帰国後はピーボディー博物館長をつとめ、1883年(明治16)に再来日して日本陶器を蒐集しました。それらの陶器はボストン美術館に収蔵されました。なお、回顧録に「日本、その日その日」があります。

 

この大森貝塚から出土した土器は「大森式」と称され、後に薄手式土器の代表となりました。また、破砕された人骨からは、食人の風習が指摘され、そのことは後の人種論争に影響を与えました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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