9月14日 <津田梅子、女子英学塾を設立(1900年=明治33)>

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1900年(明治33)この日、津田梅子は、東京麹町に女子に英語の高等教育を施すことを目的とした女子英学塾を設立したのでした。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1871年(明治4)岩倉遣米欧使節団に加えられた5人のアメリカ留学生少女のなかで最も年少だったのは、数え歳で8歳の津田梅子でした。津田梅子の本名は「むめ」。東京ではなく江戸の牛込の生まれです。開拓使が募集した女子留学生として、この岩倉使節団に同行出来たのでした。ワシントン近郊のジョージタウンのC・ランメン家にホームステイした梅子は、洗礼を受け、小学校・女学校に進学して1882年(明治15)に帰国しました。

 

帰国した時は、日本語を忘れ、日本の生活に適応するのに苦労したそうです。やがて伊藤博文家の通訳兼家庭教師となりました。1885年(明治18)からは、華族女学校で教鞭を執って800円の年俸を貰っていた梅子ですが、お嬢さん相手の教育に飽き足らず、1889年(明治22)再度アメリカに渡り、プリンマー大学の選科生となり、1892年(明治25)に帰国しました。そして華族女学校に戻り、1898年(明治31)には女子高等師範学校教授も兼任しています。

 

帰国以来。梅子は、日本女性の地位向上には高等教育が必要である、という考えに基づく確固たる抱負を抱いていたそうです。

 

1900年(明治33)この日、津田梅子はその抱負の実現に向けて第一歩を踏み出しました。東京麹町に、女史に英語の高等教育を施すことを目的とした女子英学塾を設立したのでした。開校当初、教室は借家の六畳二間で、学生はたったの10人でした。

 

当面は女子の英語教師を養成することが目標でしたが、梅子の理想は「オールラウンド・ウーマン」すなわち「まったき婦人」を育成することにありました。このために英語教育とともに徹底した個性尊重の少数教育を貫きました。梅子は、1904年(明治37)に専門学校に認可を受けてやっと25円の月給を貰うまでは、無給でがんばったということです。

 

その後、優秀な人材を世に送り出していった梅子でしたが、1919年(大正8)に糖尿病に倒れて塾長を辞しました。

「新しい芽のためには一粒の種子はくだけねばならぬ…」

と当時の日記には記してあるそうです。

 

1928年(昭和3)、東京都下の小平村に新校舎の建築が始まりましたが、梅子はその門だけをみて、翌1929年(昭和4)に没しました。女子英学塾は1933年(昭和8)に津田英学校と改称し、1948年(昭和23)には新制大学として現在とおなじ津田塾大学となり、梅子の確立した塾風を今も伝えているそうです。

 

その津田梅子女史の墓は、津田塾大学の構内にあり、そこには不思議な言い伝えがあるそうです。

1回お墓参りをすると、結婚ができなくなる。←津田梅子の呪い
3回お墓参りをすれば、その呪いが解かれる

津田梅子自身が生涯独身であり、結婚して不自由になるくらいなら一生独身で自由な方がいいという考えを持っていた、というところにこの「お墓参りの呪い」の言い伝えの根源があるということです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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