9月14日 <水野忠邦、唐津藩から浜松藩へ転封(1817年=文化14)>

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1817年(文化14)のこの日、水野忠邦は肥前国唐津藩から遠江国浜松藩へと転封されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

水野忠邦といえば、1841年(天保12)から始まる天保の改革を推し進めた江戸幕府の老中ですが、その昇進には色々と策略があったようです。

 

1794年(寛政6)、肥前国唐津藩第3代藩主水野忠光の次男として生まれた忠邦は、長兄の芳丸が早世したこともあり、1812年(文化9)に父の忠光の隠居にともない、家督を相続しました。

忠邦は幕閣として出世欲が強く、多額の賄賂を使って1816年(文化13)、22歳の時に奏者番に昇進し、幕閣要路への道が開かれました。

ところが、肥前国唐津藩主は、長崎警護の任があって幕閣の要職には就けないルールがあったのです。このため、忠邦は転封と昇進のための活動を行い、1817年(文化14)のこの日、実封25万3,000石の唐津藩から実封15万3,000石の浜松藩に転封することに成功し、同年寺社奉行への昇進を実現したのでした。

実収入は40%減となってしまいましたが、忠邦は浜松を「青雲の要路」として喜びました。また転封後は殖産興業・軍制改革を骨子とした藩政改革を断行しました。

 

その後、忠邦は、第11代将軍徳川家斉とのもとで

  • 1825年(文政8):大坂城代
  • 1826年(文政9):京都所司代
  • 1828年(文政11):西の丸老中(将軍世子徳川家慶の補佐役)
  • 1834年(天保5):本丸老中
  • 1837年(天保8):勝手御用掛を兼務
  • 1839年(天保10):老中首座

とグングン出世を遂げ、この転封は忠邦自身の出世欲を満たす結果をもたらしたのでした。

そして大御所の第11代将軍徳川家斉が没し、徳川家慶が第12代将軍に就任したのち、天保の改革に着手しました。その天保の改革の話はまた別項で、ということにしましょう。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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