9月17日 <源頼義、安倍貞任を討つ(1062年=康平5)>

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1062年(康平5)のこの日、東北の俘囚の長安倍貞任(あべのさだとう)が、都からきた討伐軍の源頼義によって討たれました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1062年(康平5)のこの日、東北の俘囚の長安倍貞任(あべのさだとう)が、都からきた討伐軍の源頼義によって討たれました。

 

俘囚の長とは、都の律令政府に降伏した蝦夷の首長のことを指します。安倍氏は、今の岩手県一帯に勢力を張っていて、朝廷に貢物を届けることを怠り、また命ぜられる労役もしばしばすっぽかした。そこで、朝廷は源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に命じました。

 

安倍氏の当主頼時は知略に富んだ武将で、頼義にたちまち恭順の意を表しました。そのため頼義は手を出す事が出来ず、ほぼ五年間は平穏な日々が過ぎたのでした。ところが、1056年(天喜4)、俘囚の軍が頼義軍の野営地を襲い、人馬を亡きものにしたのです。

 

頼義は討伐軍をおこし、安倍氏をきびしく糾問しました。しかし、頼時はそんな事実はない と言い張りました。頼義が事件をでっち上げて討伐の口実を設けたという説もあるのです。

 

安倍氏は、遂に軍をおこしました。このとき、もっとも勇敢に戦ったのが、安倍頼時の息子貞任でした。安倍氏はしだいに押され、最後は、衣川の棚を抜かれて厨川の棚に立てこもりました。この衣川の柵を抜かれたとき、敗走する貞任と追撃する頼義の子義家のあいだで有名な歌が交換された逸話が残っています。

 

義家が、

「衣のたて(稲)はほころびにけり」

というと、逃げる貞任が、

「年をへし糸のみだれの苦しさに」

と応えたそうです。浮因の長に、意外な風流の心があることを知って、頼義はたいそう感心したといいます。

が、いずれにせよ、扇川の棚もついに陥落し、安倍一族は全員自決しました。この乱を前九年の役といいます。

 

このとき、頼義軍は、出羽の俘囚の長清原氏の応援を受けています。この清原氏が、後に後三年の役を起こすのだから、歴史というものはめぐり合わせであり、また皮肉なものです。

 

————————————————————————

この出来事で、登場した安倍貞任について、以下に補足します。

安倍貞任:生年不詳〜1062.09.17没
厨川二郎と称していました。
1056年(天喜4)、陸奥権守藤原説貞(あきさだ)の子弟を襲撃し、前九年の役が勃発しました。翌年、父が戦没したあと、弟宗任(むねとう)とともに源頼義の軍を打ち破りましたが、1062年(康平5)、源頼義が清原武則の支援をうけて攻勢に転じ、厨川の柵の戦で負傷し、自決しています。自決という説と、負傷し捕らえられ没したとする説とがあります。

 

ちなみに
衣川の柵は現在の岩手県平泉町あるいは衣川村のあたりです。
厨川の柵は現在の盛岡市のあたりです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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