9月18日 <満州事変が勃発する(1931年=昭和6)>

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1931年(昭和6)のこの日、午後10時過ぎ、奉天(現・瀋陽)北郊、柳条湖の満鉄線路が爆発されました。満州事変の始まりです。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

昭和 6年のこの日、午後10時すぎ、奉天(現・瀋陽)北郊、柳条湖の満鉄線路が爆発されました。

 

「何事だろうと私どもは爆発地点に駆けつけたのですが、関東軍の兵士たちに阻止されて、爆発地点に近づけませんでした。しかし爆発のすぐ後に列車が通過していったので、線路には被害がなさそうだなと胸をなでおろしたものです。」
保線の任にあった草間壮太郎は当時をこう語っています。

 

この爆破を中国軍(張学良の軍隊)の仕業とし、午後11時過ぎ、関東軍は中国軍の宿営する北大営を攻撃し、長春・公主嶺へと満鉄沿線の主要都市を襲撃しました。この事件は、関東軍参謀の板垣征四郎大佐・石原莞爾中佐らの陰謀で、「居留民保護」を名目に満鉄沿線から遠い吉林へも攻撃しました。また林銑十郎司令官の朝鮮軍は独断越境し、満洲へ進撃しました。

 

板垣・石原らは昭和 4年以来満蒙領有計画を進めており、この年春以来の日中関係の悪化、特に7月の万宝山事件、8月に公表された中村震太郎大尉事件などによって対満蒙強硬論が高まったのを見て、この日の行動を起こしたものでした。特に計画立案の中心になったのは石原で、彼は将来、日本がアメリカと世界最終戦を戦うものと予測し(世界最終戦論)、かねてからそれに備えて満州を日本が占領することを計画していたのです。軍司令官の本庄繁わ着任早々で満州の事情にうとく、棚上げされて参謀たちの陰謀には関与していなかったと思われます。

 

若槻礼次郎内閣は 9月24日、不拡大方針の声明を発表したが、関東軍は10月 8日、独断で錦州を爆撃、国際世論の反発を招いてしまいました。

 

この日の柳条湖事件を発端として、日本軍が中国東北部を侵略し、翌 7年 3月 1日には清朝最後の皇帝溥儀を執政として傀儡国家「満州国」お樹立することになるが、国際的に孤立して 8年 3月には国際連盟を脱退、更なる侵略と戦時体制へと突き進むことになるのです。

 

上記の1931年 9月18日の柳条湖事件から、1933年 5月の塘沽(タンクー)停戦協定までの日本による中国東北部(奉天・吉林・黒竜江)・内蒙古東部への一連の武力侵攻が「満州事変」と呼ばれる出来事です。この塘沽停戦協定により、満州事変はひとまず収拾されました。

 

この満州事変当時、日本では「東京朝日」「大阪朝日」「東京日日」「大阪毎日」の4大新聞が、いずれも発行部数100〜150万部を誇っていました。これらの大新聞は、国内世論の形成に大きな影響力を持ち、この満州事変では、日本軍の行動を賛美するキャンペーンを展開したのです。元外相の幣原喜重郎が「偏狭なる排外思想」と批判した、こうした新聞論調によって、政府の協調外交路線は世論の指示を失い、日本は戦争への道を真っしぐらに進むことになったのです。

 

また、のちに1945年 8月、ソ連が対日参戦して、この「満州国」は大混乱に陥り、避難の途中、ソ連軍の攻撃・飢餓・病気などで多くの日本国民が亡くなりました。その際、親を失って取り残されたのが、後年クローズアップされた中国残留孤児なのです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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