9月19日 <稲荷山古墳出土鉄剣銘文の解読を発表(1978年=昭和53)>

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1978年(昭和53)のこの日、埼玉県行田市にある埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣「稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)」の表裏にあった銘文(めいぶん)のほぼ全文を解読したと、埼玉県教育委員会から発表されました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

埼玉県行田市にある埼玉古墳群の稲荷山古墳で、1968(昭和43)年 8月に行われた発掘調査の際に出土した鉄剣は「稲荷山古墳出土鉄剣(いなりやまこふんしゅつどてっけん)」と呼ばれ、現在は国宝です。

 

その鉄剣に対して、X線撮影などの分析を行ったところ、表裏に金の象嵌(ぞうがん)で記された115文字の銘文(めいぶん)が浮かび上がってきました。そして、1978年(昭和53)の今日、ほぼその全文を解読したと、埼玉県教育委員会から発表されました。

 

記されていた文字は以下のものです。
(表):辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏):其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

 

それを読むと以下の様な内容です。
「辛亥(しんがい)の年七月中記す。オホヒコの八代目の孫ヲワケの臣は、世々、杖刀人(じょうとうじん)の首として仕え来たりいまに至る。獲加多支鹵(わかたける)の大王の寺斯鬼宮(しきのみや)に在るとき、吾(わ)れ、天下を左治(さじ)し、百練利刀(ひゃくれんのりとう)を作らしめ、吾が奉事の根源を記る。」

 

気になるその意味は…
「この剣を作らせた武蔵の国造ヲワケの祖先オホヒコからヲワケに至る8代の系譜と、ヲワケの家が代々杖刀人(じょうとうじん=刀をもって大王の宮を守る人の意味)の首として大王に仕えてきた由来を記し、ワカタケル大王の朝廷が斯鬼宮(しきのみや)にあったとき、自分が大王を天下を治めるのを助けたこと、この練りに練ったよく切れる刀をつくって、自らが大王に仕えまつる由来を記す。」
といったものです。

 

この鉄剣は、銘文から辛亥年(471年)につくられたものと考えられています。この時代のわが国の金石文としては、江戸時代に発見された和歌山県橋本市隅田八幡宮蔵の人物画像鏡、1873年(明治6)に熊本県の江田船山古墳から出土した大刀銘に次ぐ三番目で、しかも最も長文のものとして、学界では「百年に一度もない大発見」といわれて注目されていたものです。

 

このワカタケル大王とは第21代雄略天皇のことを指している、とするのが定説です。
また、このヲワケを稲荷山古墳の被葬者、すなわち武蔵の豪族ととらえるか、「日本書紀」のオホヒコ系譜に連なる、中央にあって地方豪族の子弟からなる杖刀人を束ねた中央豪族と捉えるか、については説が対立しています。

 

この鉄剣にあるヲワケ、オホヒコ、ワカタケルといった人名やシキといった地名が、のちの万葉仮名と同じように漢字の音を借りて表記されていたことは注目すべき点です。自らの文字を作り出さなかった倭人は、こうして日本語を漢字によって表記する術を獲得していったことが判ります。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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