1203年(建仁3)のこの日、源頼家の後継問題で北条時政と対立していた比企能員(ひきよしかず)は、北条時政の私邸で謀殺されてしまいました。
これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
1203年(建仁3)7月半ばすぎから源頼家は急病にかかり、同年8月末には危篤状態に陥りました。
このとき、頼家のあとは6歳の長男一幡が継ぎ、日本国総守護と関東28ヵ国の総地頭となり、12歳の弟千幡(のちの実朝)には関西38ヵ国の総地頭を譲ることになったのです。
ところが、これを聞いて激怒した人が居ました。それが比企能員です。比企能員は将軍家とは縁が深い人物で、
- 妻(渋河氏)や義妹ら(平賀義信の妻、河越重頼の妻)は源頼家の乳母
- 娘の若狭局は頼家の妻
という間柄なので、若狭局の生んだ一幡の外祖父・後ろ盾でもあったのです。
一幡が跡を継ぐなら、当然全国の総守護・総地頭となるのが当たり前なのに、総地頭の半分以上を実朝に譲るとは何たることであるか! というワケだったんですねぇ。
これは、頼家が危篤なのをよいことに、北条政子や北条時政が仕組んだことに違いない…
そう思った能員は9月2日の朝、病床の頼家と面会し、その枕元で2人は北条氏征伐のはかりごとを巡らしたのでした。
ところが、障子の陰でで、これをこっそりと聞いていた人が居ました。
北条政子です。
政子の急報を受けた時政は、いちはやく先手を打ってでました。
まず、側近のなかでもリーダー格の大江広元を抱き込んでしまいました。そして仏事にかこつけて、名越にある時政の私邸に能員を招待しました。その朝、頼家としたはかりごとがバレバレだとは知らない能員は、「行くな」と止める一族を振り切り、「行かねばかえって疑われるだけだ」と言って時政の屋敷に行きました。
屋敷に入っていった能員は、足を踏み入れたとたん、待ち構えていた武士に捕らえられ、その場で刺殺されてしまったのでした。
1203年(建仁3)のこの日のことでした。
残った比企一族は、一幡もろとも北条氏に滅ぼされてしまい、頼家は同月7日に鎌倉殿の地位を追われて伊豆の修善寺に押し込められ、千幡が将軍となって源実朝をなのりました。
この時の時政の地位は執権と呼ばれ、以後代々北条氏に伝えられて行きました。
この記事の内容は「吾妻鑑」の記述に基づくものなのですが、もう一つ興味深い情報があります。
京都の貴族の日記によれば、9月7日の早朝、幕府の使者が京都に到着し「去る1日に、頼家は病死し、実朝が跡を継いだ」と報告し、実朝の征夷大将軍任命を要請しているのです。9月7日といえば、重病ではありますが、頼家は生きており、修善寺に幽閉された日なのです。
当時の移動日程から逆算すると、7日に京都に着くためには1日か2日には鎌倉を出発していなければなりません。すなわち、比企能員が謀殺される前日か前々日です。となると、頼家と能員が謀議を巡らした…とか、北条政子が障子の陰で盗み聞き…なぁんていうのは嘘八百ということになりますよね。
真実は、闇の中にあるみたいです。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。
今日はここまでです。
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