9月24日 <西郷隆盛、城山で自決(1877年=明治10)>

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1877年(明治10)のこの日、明治維新の英傑西郷隆盛が西南戦争で政府軍に敗れ、鹿児島の城山(しろやま)で自決しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1877年(明治10)のこの日、明治維新の英傑西郷隆盛が鹿児島の城山(しろやま)で自決しました。西郷自身は、その頃肥満した身体を持て余していたので、一人で腹が切れず、腹心の別府晋介(べっぷしんすけ)に

「晋どん、もうこの辺でよか」

といって首を打たせたそうです。

 

西郷の反乱は、鹿児島を中心とした下級士族のために起こったものでした。というのも、明治新政府が国民皆兵策をとり、武士よりも農庶民を軍人にすることに力を入れたことに原因があります。徴兵制度が導入される事は、旧武士達の存在意義が無くなることであり、彼らは生きる場所を失ったのでした。

 

国民皆兵制度は、主として山県有朋(やまがたありとも)や大村益次郎(おおむらますじろう)らによって推進されました。二人とも長州藩士です。彼らは、高杉晋作(たかすぎしんさく)の奇兵隊(きへいたい)の経験から「武士よりも、農庶民の方が強い」という確信を持っていたのです。それと同時に、軍人になることを新しい就職と考える日本各地域の貧しい子弟たちは、軍務に精励しました、そういったこともあり、長年の特権意識と惰性だけで生きてきた武士たちは、到底その軍人達にはかなわなかったのでした。

 

働き場をつぎつぎと農庶民に奪われた旧武士は、次第にその生活が貧しくなっていきました。やがて、旧武士の失業者があふれ、それを憂えた西郷は何度も「旧武士を救え」と訴えました。しかし、新政府はこの声には耳を傾けませんでした。そこで、1877年(明治10)2月、西郷はついに意を決して鹿児島の士族のために立ち上がったのでした。これが西南戦争です。それまでも小さな内乱としては1874年(明治7)佐賀の乱、1876年(明治9)敬神党の乱・秋月の乱・萩の乱がありましたが、この西南戦争は戊辰戦争以来の大きな内乱でした。

 

西郷討伐の先頭に立っていたのは、かつての友人の大久保利通(おおくぼとしみち)、弟の西郷従道(さいごうつぐみち)、部下の黒田清隆(くろだきよたか)、盟友の山県有朋たちでした。初めは、勝敗の行方も予断を許さないほどで、西郷軍が最初に目標としたのは熊本城でした。ところが、ここが容易に陥落しなかったため、戦局は次第に政府軍に有利に傾き、それ以降7ヶ月にわたって、各地を彷徨することになりました。同年8月17日には宮崎県長井村で西郷軍は全軍を解散し、精鋭数百人で鹿児島に戻って再挙を図りましたが、その鹿児島の城山で最後を迎えました。

 

この西南戦争の人数に関するデータが、明治政史に載っています。

政府軍
兵力:60,831人
亡くなった人、怪我をした人:15,801人
西郷軍
兵力:約40,000人
亡くなった人、怪我をした人:約20,000人
処罰: 2,764人(うち斬罪:22人)

この西南戦争における、政府軍の勝利は、新しい徴兵制度による軍隊の威力を示すとともに、政府の権力がもはや揺るぎないものであることを明らかにしたのでした。そして、この西南戦争を最後として、おおむね士族の武力反乱は終わりをつげ、明治政府の全国統治は安定化しました。それ以降の反政府運動の主体は自由民権運動へと移っていきました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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