9月26日 <青函連絡船洞爺丸、台風で遭難する(1954年=昭和29)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の世界の出来事を覗いてみましょう。

 

1954年(昭和29)のこの日の午前2時頃、鹿児島県の大隅半島に上陸した台風15号は、時速100kmの高速で日本海から北海道西岸に進みました。

 

その当時、北海道と本州とを結ぶ大動脈として活躍していたのは国鉄の青函連絡船でした。台風15号の来襲で出港を見合わせていた青函連絡船の洞爺丸(4337トン)は、風がおさまりつつある、として乗客乗員1,337人を乗せて午後6時39分に函館港を出港しました。

 

出港はしたものの、洞爺丸は防波堤の外で仮停泊して、強風をやりすごそうとしましたが、想定外の強風を受けて午後10時25分頃函館港外で座礁し、SOSの打電後、転覆し沈没してしまいました。

 

洞爺丸が座礁転覆する様子は、港から観察されていましたので、ただちに救助作業が始まりましたが、折り悪く強風に遮られて思うに任せない、といった状況でした。

 

翌朝、おびただしい死体が北海道の七重浜に流れ着く大惨事となりました。亡くなった方・行方不明者あわせて1,155人におよび、世界史上でも記録的な海難事故となりました(1912年のタイタニック号、1865年のサルタナ号の事故に次ぐ史上第三位です)。

 

船長も亡くなったので、遭難にいたる経過の詳細は不明ですが、台風の強度を過小評価したのと、積載していた貨車の締め付けに緩みがあり、それが船体の動揺との共振現象を起こしたのが転覆の原因ではないかと推定されています。

 

海難審判では、国鉄側は不可抗力を主張しましたが、1959年(昭和34)2月、高等海難審判所は「国鉄側過失にもとづく人災」との裁定を下しました。

 

この台風15号により、青函連絡船は洞爺丸のほかにも十勝丸・北見丸・日高丸・第十一青函丸の4隻も沈没し、合計321の乗員のうち289人が亡くなるという惨事も起こっています。この台風により、青函連絡船は一晩で5隻の船を失っており、その他にも航行不能になった船舶もあり、壊滅的な打撃を受けました。

 

また北海道の岩内町では、台風通過にともなうフェーン現象による大火(岩内大火)が発生し、焼失戸数3298戸、罹災者16622人、亡くなった方35人という具合にこちらも大惨事でした。

 

この様に各地で甚大な被害をもたらした台風15号は、そののち「洞爺丸台風」と命名されました。

 

現在は、北海道と本州とを結ぶ手段としては青函トンネルが活躍していますが、そのトンネルで両岸を結ぶ構想は、この洞爺丸の事故が起こったことで具現化のスピードが上がった事は間違いありません。

 

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