9月29日 <日中共同声明発表(1972年=昭和47)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の世界の出来事を覗いてみましょう。

 

1972年(昭和47)のこの日、北京の人民大会堂で、日本と中国との戦争状態終結と平和友好条約との締結に同意する旨の共同声明が発表され、田中角栄・周恩来(しゅうおんらい)の両首相は手を握り合いました。

 

田中角栄は四日前、周恩来の招きで大平外務大臣と二階堂官房長官らを同行して北京空港に降り立ち、その日から日中国交の会談を続けてきました。27日には毛沢東(もうたくとう)主席とも田中は一時間にわたって会談しました。翌28日、田中は周恩来との最終会談を。北京到着の日から四回にわたる日中代表者たちの会談、そして宿舎の迎賓館一八楼に戻ってからは深夜に及ぶ日本側の検討というタフなスケジュールの連日でした。

 

28日夜、田中が主催した返礼宴では、日中の代表はすっかりうちとけ、周恩来首相、軍事委員会・国防委副主席葉剣英、全国人民代表副委員長・中日友好協会名誉会長郭沫若ら多数の出席者たちの顔は、国交回復の喜びに紅潮していました。周恩来と田中がこのときに交換した手紙には次のような言葉がしたためられていたそうです。

周恩来 :「言必信、行必果(言えば必ず信じ、行えば必ず果たす)」
田中角栄:「信は万事の元」

 

田中角栄は佐藤栄作内閣退陣の後、1972年(昭和47)7月7日に首相となってすぐの大役を果たしました。この一連の動きには、じつは伏線がありました。1972年2月に、アメリカのニクソン大統領が訪中しており、その前年には中華人民共和国の国連加盟が実現(その時、中華民国は国連を脱退)しているのです。そして日本でも田中角栄内閣の成立と同時に、「日中国交正常化への機は熟している」との談話を発表しました。その頃中国は、隣国のソビエト連邦と軍事衝突を起こすに至るほど、関係が悪化していたこともあり、周恩来首相にとっても、日中関係を正常化することは大きな意味があったのです。

 

明けた29日、以下の覆交三原則

1.中華人民共和国は唯一の合法政府
2.台湾は中国領の不可分の一部
3.日華平和条約破棄

をふまえた上での外交から経済交流にいたる平和友好声明の発表と相成りました。その内容は

1.日本は戦争責任を認め、反省する態度を表明する
2.「戦争状態の終結」という表現はとらず、両国間の不正常な状態を終わらせるという表現をする
3.中華人民共和国を唯一の合法政府とする
4.中国側は対日請求権を放棄する

の4点にまとめられます。

 

この結果、日華平和条約は破棄され、日本は中華民国(台湾)との外交関係は断絶しました。この日中共同声明のあと、1978年(昭和53)の福田赳夫内閣の日中平和友好条約の調印まで時間があいてしまったのは、いわゆる覇権条項をめぐって、日中が折り合わなかったからです。日本が条約上「ソビエト連邦は覇権国家である」と認めることを中国は要求しましたが、「覇権反対」を表明しながら、それが「第三国との関係」に影響を及ぼすものではない、という文言にすることによって妥協が成立し、条約締結にいたりましたが、この話はまた別の機会にしましょう。

 

田中角栄が毛沢東主席に手渡したと、この詩は田中角栄の作とされていますが、一説によると秘書であった早坂茂三(はやさかしげぞう)の代作という噂もあります。

国交途絶幾星霜
修好再開秋将到
隣人眼温吾人迎
北京空晴秋気深

この詩を送ったことに対する返礼として、毛沢東主席は田中に、屈原の「楚辞」を贈っています

 

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