9月4日 <僧隠元、万福寺住職を退任(1664年=寛文4)>

スポンサーリンク

1664年(寛文4)のこの日、僧の隠元隆琦(いんげんりゅうき)は住職を弟子の木庵性瑫に移譲して、寺内の松隠堂に退隠しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

彩ちゃんと黒猫のPinotとが、今日の記事について話していますよ・

Pinot
今日は、隠元の話なんだにゃ
インゲン、胡麻和えにしたの大好き! 隠し味に梅干しをたたいて入れるの
Pinot
あ、そうにゃ…、インゲン豆は隠元が日本にもたらした、という説もあるんだにゃ。
Pinot
その他にも、隠元菜(唐菜)・隠元茶(煎じて飲むお茶)・隠元やかんなどなど…、その名を冠したものが沢山あるにゃ
アスパラガスの豚肉巻きってあるでしょ? それのインゲン豆版も美味しいよ
ぐっとシンプルにインゲン豆のマヨ醤油和えおかか載せも試してみて!

彩ちゃんは食べ物の話が好きなんですねぇ。

確かに、インゲン豆はこの隠元隆琦が明から移植したとされていますが、一説によると隠元が持ち込んだのはインゲン豆ではなくフジ豆だったということだった…とも考えられています。

 

さて、この隠元隆琦ですが、中国福建省の出身で、出家したのは29歳、と結構年齢を重ねてからでした。諸方遍歴ののち、福州黄檗山万福寺で黄檗宗う(おうばくしゅう)を極め、長崎興福寺の逸然性融(いつねんしょうゆう)らの懇請を受けて、1654年(承応3)7月に来日し、その後摂津国富田の普門寺に移りました。

1658年(万治元)、第4代将軍徳川家綱に謁見し、大老酒井忠勝のすすめもあって日本永住を決意したのです。1660年(万治3)には幕府から山城国宇治郡大和田に寺地を与えられ、翌1661年(寛文元)万福寺を創建して日本黄檗宗を開きました。

この万福寺の伽藍は、明の禅刹様式を採用し、わざわざ明からチーク材を運び込んで建てられ、黄檗文化の精髄をなす、と言われています。

 

1664年(寛文4)のこの日、隠元は住職を弟子の木庵性瑫に移譲して、寺内の松隠堂に退隠しました。

Wikipediaに隠元の肖像画の画像があるので無断借用してきました。画像またはその下の青文字をクリックすると、Wikipediaの大きな画像が見られます。

<隠元隆琦>
(Wikipedia「隠元隆き」から無断借用)

 

そして退隠後年の1673年(寛文13)4月3日、82歳で示寂しました。嗣法の弟子は23人、うち3人は日本僧でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
9月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!