9月7日 <江戸幕府、南鐐弐朱銀を発行(1772年=安永元)>

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1772年(明和9)のこの日、田沼意次の貨幣制度改革を狙った銀貨鋳造策の一つとして、南鐐弐朱銀が発行されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

享保の改革の年貢増徴策により、幕府の年貢収入は順調に増加しましたが、宝暦期(1751〜64年)には頭打ちとなり減少しはじめ、また米価の下落も加わって幕府の財政は再び行き詰まってしまいました。

老中田沼意次は、この財政問題を打開するために、年貢増徴に頼るのではなく他の増収策を採りました。それは、

  1. 各地で発展しつつあった特産物をはじめとする商品生産や流通、またそれが生み出す富に着目し、それを幕府に取り込もうとしました。
  2. 大坂などの大商人の資金を積極的に活用し、下総印旛沼・手賀沼の開発に取り組み、年貢収入の底上げを図りました。
  3. 蝦夷地に着目し、最上徳内らの調査隊を派遣し、蝦夷地の幕府直轄化と大規模な開発計画を進めようとしました。

意次は、商品生産・流通を掌握するため、都市や農村の商人、手工業者の仲間組織を株仲間として公認し、それらに運上・冥加などの租税を課し、銅座・真鍮座・人参座・朱座などの座を設けて専売制を実施しました。

それとともに、商品経済の発展に伴い増大する貨幣需要に対応するため、それまでの金・銀・銭3貨を金に一本化した貨幣制度へ一歩を踏み出し、それまでは目方を量って使用する秤量貨幣であった銀貨を計数貨幣として使える便利な銀貨南鐐弐朱銀を、1772年(安永元)のこの日発行し始めました。南鐐弐朱銀1枚を金弐朱に相当、すなわち南鐐弐朱銀8枚で小判一両に相当するものとして流通させました。

 

この銀貨は、オランダから輸入した銀を用いた純度98%の良質のものであることから南鐐と呼ばれました。ただし、初鋳時の通用銀品位が46%だったのに対し、上銀であることを強調し、南鐐が付加されて品位を上げたのです。

当初は額面相当の含有素材価値の低さから流通が滞りましたが、少額貨幣の便利さからこの種の係数銀貨は流通貨幣の主流となり、好評であったこの南鐐弐朱銀は1824年(文政7)の鋳造終了まで鋳造高590万両に達する貨幣となりました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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