9月9日 <丸の内のドンが始まる(1871年=明治4)>

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1871年(明治4)のこの日から、江戸城旧本丸で昼12時、時報代わりに大砲で空砲を一発ぶっ放すことが始まりました。世間では「丸の内のドン」と呼ばれました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

明治時代初期、人々は正確な正午の時刻も知らず、各自の持つ時計も時刻がまちまちで、仕事に支障をきたしていました。

そこで、兵部省が主体となり、正午にいわゆる午砲を打つ計画をしたそうです。その経緯がWikipediaに書かれていますので以下に引用します。

 

1871年、兵部省で「真時正刻は胸臆手記することがはなはだむつかしい」という理由で東京の午砲執行を計画した。すなわち「旧本丸中に於て、昼十二時大砲一発ずつ毎日時号砲執行致し且つ諸官員より府下遠近の人民に至るまで普く時刻の正当を知り易くし以て各所持する時計も正信を取る所これあり候よう致し度、云々」という伺書を兵部省より太政官に提出したところ太政官においてもその必要をみとめ、同年9月2日(10月15日)達しで9日(22日)から執行させることとなった。

(Wikipedia「午砲」から引用)

上記のように、1871年(明治4)のこの日から、江戸城旧本丸の練兵場に午砲台から、天文台と電信で確認しながら正午に大砲により正午を知らせる空砲を打つことが始まりました。世間では「丸の内のドン」と呼ばれ、これにより正午の時刻をしることろとなったのです。

その空砲を打つのは、近衛砲兵で、下士1名、上等兵2名が午砲台(ごほうだい。午報所とも。)に来所して業務として行ったそうです。

 

午砲を打った大砲は今も残っており、東京都小金井市にある江戸東京たてもの園に保管展示されています。写真がWikipediaにあったので無断借用してきました。写真またはその下の青文字をクリックするとWikipediaの大きな画像が確認できます。

<午砲で使われた大砲>
(Wikipedia「午砲」から無断借用)

 

現在は、様々な場所で現在時刻を知ることが出来ますが、そうではなかった明治時代において、このドンは正確な時刻を知るための象徴的な存在でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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