1月13日 <勝海舟、妻に「ちょいと品川まで行ってくるよ…」と告げ大冒険に出発(1860年=安政7)>

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158年前のこの日、勝海舟は家族に

「ちょいと品川まで行ってくるよ」

とだけ言って家を出ました。「品川まで…」ということに嘘はなかったのですが、そのまま幕府の軍艦咸臨丸でアメリカまで行ったのでした。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

この2年前の1858年(安政5)に日米修好通商条約が調印され、その批准書を交換するための批准使節団が米国に派遣されることになりました。

使節一行はアメリカ軍艦のポーハタン号に乗ることになっていましたが、同艦だけでは使節団の全員を収容できないため、この機会に日本人だけで随伴船をアメリカまで航海させようではないか…という話になったのです。そうして、幕府海軍の練習航海も兼ねて、咸臨丸(かんりんまる)も派米されることになりました。

長崎でオランダ人から、海軍の技術を教えられはじめてから、まだ3年しか経っていないので、これはかなりの冒険であった…というべきなんでしょうね。

 

この咸臨丸という船は、幕府の注文によってオランダで建造された木造艦で100馬力の蒸気機関を備え、3本マストの、全長48.8m、全幅8.74m、排水量620tの小軍監でした。船の原名はヤパン(Japan)ですが、咸臨丸と命名され就役しました。「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味するそうです。

 

咸臨丸の渡米にあたって、提督には出発前に「軍艦奉行」に昇進して遣米副使としての任も与えられた木村摂津守喜毅が任命され、艦長は、軍艦操練所教授方頭取の勝海舟でした。以下士官に当たる者17名、水夫・従者らを合計すると96名が乗り込みました。50名余りの水夫は、ほとんど瀬戸内海塩飽島出身でした。この時には福沢諭吉や中浜万次郎(ジョン万次郎)・小野友五郎・松岡盤吉・赤松大三郎                                    といった有名人も乗り込んでいます。

なお、当初は日本人のみが乗り組む予定でしたが、駐日公使のハリスや木村喜毅の希望により、ジョン・ブルック大尉以下10名のアメリカ水夫が同乗することになりました。ブルック大尉は、米国測量船クーパーの艦長で、たまたま同艦が浦賀で難破し、帰国の為の便船を待っていたところだったのです。

 

1860年(安政7)のこの日、品川を出帆した咸臨丸は、1月19日に浦賀を出港し、2月26日にサンフランシスコに入港しました。

出港直後から荒天に見舞われ、航海は難儀を極めたようです。海軍のことなら何でも知っているつもりだった勝海舟、自分の上役が居ることも気に入らなかったので、提督の木村喜毅への八つ当たりに船酔いが重なって、航海中は不機嫌だったそうで、ふたこと目には

「ボートを下ろせ! 俺は江戸へ帰る!」

と騒いで周囲を困らせたそうですよ。きっと、下の絵の様に荒波に揉まれまくって大変だったのでしょうね。

 

<咸臨丸難航図>

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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