1918年(大正7)のこの日、作家の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)らの呼びかけによって、宮崎県児湯郡木城村(こゆぐんきじょうむら)に「新しき村」と呼ばれる農場が創設されました。
これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
武者小路実篤は、明治〜昭和時代にかけて活躍した作家で「お目出たき人」「友情」などは読まれた方もいらっしゃるのでは、と思います。子爵の家柄に生まれており、大変な上流階級の出身です。有島武郎(ありしまたけお)・志賀直哉(しがなおや)・有島生馬(ありしまいくま)・里見弴(さとみとん)らの雑誌「白樺」を中心に創作・評論活動をして華々しく活躍した、いわゆる白樺派の作家達は皆さん裕福な家庭に生まれておられるんですね。大蔵省の上級官僚とか、財界の重鎮とか…。ひとくくりにして言うのも気が引けますが、良く言われるように
「彼らはいずれも上流階級の出身で、洗練された都会的感覚と西欧的教養とを身にまとい、その明るい人道主義的作風で世に広く受け入れられ、また文学のみならず西洋美術の紹介にも貢献した。」
という風に説明されます。
その武者小路実篤らの呼びかけによって、1918年(大正7)のこの日、作家の宮崎県児湯郡木城村(こゆぐんきじょうむら)に「新しき村」と呼ばれる農場が創設されました。
「新しき村」ですが、これは1918年(大正7)に機関紙「新しき村」を創刊した武者小路実篤が、同年、兄弟主義を掲げた共働共生の理想村です。その経緯は武者小路実篤「この道を歩く」、木村艸太(きむらそうた)「魔の宴」、川島伝吉「日向の村の思ひ出」などに書かれています。その理念は、「各個人の自我の完全な生長と、相互の協力による調和した世界の建設をめざす共同体」です。
実篤は、運命を信じ、自己以上の「或るもの」の実在を感じる宗教的な素質と、青年時代に傾倒したトルストイの人道主義と、自己の生命本能に促された自我の充実完成の要求とによって、独自の人間尊重の理念を育てたが、大正期以降それに基づく、「或るもの」・自然の意志に即した全人類の調和を実現すべき使命感を強くし、第一次世界大戦に刺激されて、その実践に踏み切った。
(「国史大辞典」より引用)
だそうです。そして…
現社会とは全く別の新たな理想社会の樹立を目的として、1918年(大正7)同志とともに土地をもとめて宮崎県に赴き、11月児湯郡木城村宇城(木城町石河内)に四町歩余を得て、入植を開始、ここに新しき村の歴史が始まった。
(「国史大辞典」より引用)
その運営については、与えられた使命を全うする、という意志が伝わってきます。
人間が人間らしく生きられる生活を保障するための義務労働として農業を選び、労力の公平な負担を原則とし、余暇を天分に応じて文芸・美術・音楽・演劇などの活動に費やす方式で、村内会員のほかに村外会員を募り、資金的援助を受ける体制をとり、それが全国に普及して、初期の経済的な困難を救い、村自体も灌漑・発電工事を行い、印刷所を設けるなど整備された。
(「国史大辞典」より引用)
ところが、後年その宮崎県の土地は、ダムの建設によりその村の土地の半分が使えなくなったので、現在は埼玉県入間郡毛呂山町に移転しています。
のち県営ダム建設のため、1939年(昭和14)現在地に移住し、水田耕作から始めて、果樹栽培・養鶏その他と事業を広げ、1948年(昭和23)財団法人となり経営も安定して、今日に至っている。
(「国史大辞典」より引用)
その移住してきた埼玉県の拠点は「東の村」と呼ばれており、また、宮崎県の残った土地に2家族が住み、「日向新しき村」として現在もその活動を続けている様です。
今日ご紹介した「新しき村」にはウエブサイトもあるのですよ。サイトへのリンクを貼り付けておきますね。→「一般財団法人 新しき村」
村で生産されたものは、実際に販売もされており、米(ミルキークイーン)、旬の野菜、椎茸、お茶、竹炭、柚子、銀杏などがサイトに出ています。注文に応じて発送もしてくれるようなので、ご興味のある方は、上記リンクからアクセスして下さい。
武者小路実篤も、大正末期までは実際にこの宮崎県を仕事と生活とのベースとしていました。こうした活動は、有島武郎が北海道で実践した農場開放とならび、白樺派の理想主義の実践の一つと言えましょう。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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