11月14日 <源義家、金沢柵を攻め落とす。後三年の役(1087年=寛治元)>

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1087年(寛治元)のこの日、藤原清衡に頼られて、清原家衡が立てこもる金沢柵(かねざわのさく)を攻め落としました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

平安時代後期、陸奥では豪族安倍氏の勢力が強大で国司と争っていましたが、源頼信の子の頼義が陸奥守兼鎮守府将軍となって任地に下ると、安倍氏は一旦は服従しましたが、反乱を起こしたのです。

安倍氏は頼時や、頼時の没後は貞任・宗任兄弟が根強く抵抗したため、乱は長期化しました。源頼義は子の義家とともに東国の武士を率いて安倍氏と戦い、出羽の豪族清原氏の加勢を得て、やっとのことで安倍氏を滅ぼしました。

これが1051年(永承6)〜1062年(康平5)にかけて、陸奥国(東北地方)で起こった前九年の役(ぜんくねんのえき)と呼ばれる戦いです。

 

その後に起こったのが、陸奥・出羽(東北地方)を舞台として起こった後三年の役(ごさんねんのえき)と呼ばれる戦いです。

前九年の役の後に安倍氏にかわって陸奥・出羽両国で大きな勢力を持ったのが清原氏でしたが、その清原氏一族に内紛がおこったのです。清原真衡(きよはらさねひら)が弟の家衡(いえひら)と争い、真衡の没後は家衡が、今度は母の連れ子の藤原清衡(ふじわらのきよひら)と争っていました。

そこに陸奥守であった源義家が巻き込まれました。

藤原清衡に頼られた義家は、家衡のたてこもる金沢柵を攻撃しました。

この金沢柵は、清原氏の軍事的拠点でした。出羽国山本郡(現・秋田県横手市金沢)に所在した、比高90mの急峻な丘陵に立地し、麓に羽州街道を望む山城でした。まわりを断崖絶壁の岩山で囲まれた天然の要害で、そこに数多くの堀を設けた堅固な柵であったそうです。

鉄壁の守りを誇る金沢柵に、義家軍は多くの凍死者を出し攻略に手を焼き、兵糧攻めを行いました。そうした苦戦の末、1087年(寛治元)のこの日、ついに難攻不落の金沢柵を攻め落としました。

Wikipediaには次のように記されています。

寛治元年(1087年)、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めた。この時に義家の発案で剛の座・臆の座(剛臆の座)が設けられ、源義光の郎党藤原季方が活躍する。が、なかなか金沢柵を落とすことは出来なかったため、吉彦秀武は兵糧攻めを提案した。

包囲したまま秋から冬になり、飢餓に苦しむ女子供が投降してくる。義家はいったんはこれを助命しようとしたが、食糧を早く食べ尽くさせるために皆殺しにした。これに恐怖したため柵内から降伏するものはなくなり、これによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した

(Wikipedia「後三年の役」から引用)

家衡は逃走しようとしましたが討たれてしまいました。

 

源義家の介入は私合戦とみなされ、朝廷から恩賞は与えられませんでしたが、この戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武士の棟梁としての地位を固めました。というのも、関東から出征してきた将士に対して義家は私財から恩賞を出してその苦労に報いたこともあったからです。

東国の武士団のなかには義家に土地を寄進して保護を求める者が増えたため、朝廷はあわててこれを禁止したほどでした。この頃は、地方武士が大名田堵の経営を継承しつつ、開発領主として成長して私領の拡大を望んでいて、そうしたニーズを捉えた義家は、彼らを家人として組織して行きました(田堵(たと)は、日本の平安時代に荘園・国衙領の田地経営をおこなった有力百姓層で、規模の大きなものが大名田堵ですね)。

こうした家人層が、後の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれています。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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