11月4日 <巨人軍王貞治選手が引退(1980年=昭和55)>

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37年前のこの日、読売巨人軍(読売ジャイアンツのこと)の主砲として長い間活躍した王貞治選手が引退し、巨人軍の助監督に就任しました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

現在、王貞治という名を聞いて、福岡ダイエーホークスの取締役会長兼GMとしての姿を思い浮かべられる方もおられるかと思いますが、小生はやはり巨人のユニホームを来た王貞治選手・監督時代の姿が目に浮かびます。

 

王貞治は、今年のドラフト会議の目玉選手でもあった清宮幸太郎と同じく早稲田実業学校の出身で、1959年(昭和34)に巨人に入団しています。最初の何年かは打撃成績はあまりパッとしまいものでした。

1961年のシーズン後、巨人の打撃コーチに就いた荒川博と二人三脚とも言える師弟関係になり厳しい練習の末に行き着いた「一本足打法」によってホームラン打者として開眼し、その後も絶えざる努力を続けた結果、公式戦に於ける本塁打数868本という前人未到の偉業を成し遂げたのです。

1977年(昭和52)には、アメリカの野球のメジャーリーグの通算本塁打記録、ハンク・アーロン選手の755本を越える756本を記録し、この偉業が称えられ、当時の福田赳夫首相から初の国民栄誉賞を授与されています。これが最初の国民栄誉賞なんですねぇ。

シーズン本塁打数55本、三冠王など数々の記録を打ち立てていった王貞治でしたが1978年(昭和53)以降、徐々に打撃に衰えを見せるようになり、そして1980年(昭和55)のこの日、遂に引退表明を行いました。その時、王貞治が言った言葉があります。

 

王貞治としてのバッティングができなくなった

 

そうして王貞治はバットを置いて、選手として闘う生活に別れを告げました。しかし、そこでは終わりませんでした。それから30年間、巨人やダイエーホークスの監督となって、あるいは第1回 ワールド・ベースボール・クラシックでは日本代表チームの監督として活躍したのは記憶に新しいところであります。

2006年(平成18)には胃ガンの手術を受けられてから随分と痩せられたものの、現在も元気な姿をみせてくれるのは嬉しい限りです。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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