902年(延喜2)のこの日、百姓による農地の寄進行為や法にそむく荘園を停止する命令が発せられました。延喜の荘園整理令とよばれる、最初の荘園整理令です。
これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
古代〜中世に「荘」と呼ばれた領地のことを荘園といいますが、その始まりは、8世紀の奈良時代にまで遡ります。貴族や大寺院が地方に所有する別宅や倉庫などの建物群と、その周りの墾田とをあわせて私有地としたことにあります。
これらの初期荘園の墾田は、貴族や大寺院が743年(天平15)に発布された墾田永年私財法にもとづいて自ら開墾した土地や、その近くから買収したもので、周辺の班田農民や浮浪人を使って経営されました。
これらの荘園は、その成立の経緯から墾田地系荘園とよばれ、のちの寄進を契機とする荘園の寄進地系荘園と区別されます。
こうした初期荘園は、租税免除(不輸・ふゆ)を朝廷から認められなかったこともあり、その経営は不安定であり、また国家の支配機構に依存していた面もあったので、9世紀には衰退しました。
しかし、領主の権威を背景として、朝廷から不輸の権(免税特権)を承認してもらう荘園が登場して、それが次第に増加していったのです。
また、田堵(たと)、或いは大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる諸国の裕福な百姓は、租税を逃れる目的で土地を「院宮王臣家」と称される権門勢家に寄進していました。
こうした不輸の土地が増えたため、国司(その地域を統治する役人)による税の収納が困難になっていき、ひいては国家財政に多大な影響を及ぼすにいたりました。
そこで、902年(延喜2)のこの日、荘園の新規設置を取り締まり、違法性のある荘園を停止させるために、太政官符として延喜の荘園整理令が発布されました。
この延喜の荘園整理令では
- 醍醐天皇が即位した897年(寛平9)以降に開かれた勅旨田の廃止
- 地方民が田畑や舎宅を寄進することの禁止
- 貴族や寺社が未開の山野を不法に占拠することの禁止
- 土地所有者には班田の励行を義務付ける
といった事が規定されており、その後、1156年(保元元)までに10回を数えた(この延喜の荘園整理令を含めて11回)荘園整理令の出発点となるものでした。
しかし、こうした禁止事項を規定する一方で、
同時に、成立の由来がはっきりとしていて、かつ国務の妨げにならない荘園は認めるという例外規定は、かえって荘園の公認を意味することにもなり、むしろ各地で荘園の公認を求める動きは活発化しました。
この延喜の荘園整理令を実施する過程で、班田制に基づく律令制の原則では財政を維持するのが不可能であることを朝廷は思い知ったのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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