3月13日 <幸徳秋水が非戦社説「与露国社会党書」をロシアに向けて発信(1904年=明治37)>

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1904年(明治37)のこの日、幸徳秋水が平民新聞の社説で「与露国社会党書」と題する日露戦争反対を発表しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

平民新聞は、幸徳秋水が非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及をおこなうために開業した新聞社「平民社」が発刊していた週刊新聞です。

 

幸徳秋水は1904年(明治37)3月13日、この平民新聞の社説に「与露国社会党書(ろこくしゃかいとうにあたうるのしょ)」を発表しました。

日露戦争が始まってから出されたこの社説では、

 

「諸君の敵は日本人に非ず(あらず)、じつは今の所謂(いわゆる)愛国主義也、軍国主義也。我らの敵は露国人に非ず、而して亦実に今の所謂愛国主義也、軍国主義也。然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等の共通の敵なり」

 

と日露戦争反対の論陣を張りました。この社説はアメリカやドイツでも新聞上で紹介され、またロシア社会民主労働党の機関紙「イスクラ」に返答も掲載されたなど海外でも注目された様です。

 

ちなみに、イスクラの返信には次の様に書いてありました。

「力に対するには力を以てし、暴に抗するは暴を以てせざるを得ず。…中略…今我等の最も重大に感ずるは、日本の同志が我等に送りたる書中に現したる一致聯合(いっちれんごう)の精神に在り。我等は満幅の同情を彼らに呈す。」

とまぁ、必ずしも論調は同調していないんですよね。

 

このイスクラの返信に対し、平民新聞はこう評しています。

「吾人は之を読んで深く露国社会党の意気を敬愛す、然れど吾人がさきに、暴力を用いる事に就て彼らに忠告したるに対し、彼等が猶終に暴力の止むを得ざる場合あるを言うを見て、深く露国の国情を憎み、深く彼等の境遇の非なるを悲まざるを得ず」

と、同情たっぷりに受け取っています。

 

あの時代、対露開戦論調一色の時に、これだけのものを発表するのは、大変だったであろうし、それだけ目立つ活動をした故に、幸徳秋水は7年後の大逆事件で死刑にされてしまったんですねぇ。その金字塔の様な主張の輝きは今尚、その光を失いません。

 

以下に、ネット上から拾ってきたこの「与露国社会党書」の大要へのリンクを貼り付けておきます。

与露国社会党書

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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