3月11日 <名門武田氏が滅亡(1582年=天正10)>

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1582年(天正10)のこの日、武田勝頼親子は天目山付近の田野という場所で織田信長の軍から攻撃を受け、自ら命を絶ちました。ここに、清和源氏に連なる甲斐源氏の棟梁で、武田勝頼までで20代目を数える名門武田家が滅亡しました。

これは安土桃山時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1582年(天正10)2月3日、織田信長は信忠とともに木曽口から攻め入ると同時に、徳川家康に駿河口から、北条氏政に関東口、金森長近に飛騨口からそれぞれ一斉に甲州武田領に攻め入ることを命じました。

 

これに対し、武田勝頼自身は諏訪に出て軍を指揮し、伊奈口の滝沢に要害を構え、下条信氏(しもじょうのぶうじ)にこれを守らせ、下伊奈の飯田城に保科正光(ほしなまさみつ)、松尾城に小笠原信嶺(おがさわらのぶみね)、上伊奈の高遠城に仁科盛信(にしなもりのぶ)を置き、その他の方面にも守備を固めて迎え撃ちました。

 

ところが、内通、離叛が相次いだ武田方は1ヶ月も経たず総崩れ状態になり、武田勝頼は諏訪より陣を撤退して新府に拠点を構えようとしましたが、津留(つどめ)郡の豪族小山田信茂(おやまだのぶしげ)のすすめにしたがって、その居城岩殿城に行くこととしました。同年3月3日に新府の居館を焼いて、武田一門は山道を越えて岩殿へ逃避行に出ます。

 

この逃避行、実は叛心のあった小山田信茂の策略によるものだったのです。3月9日笹子峠において信茂は急に勝頼一行に鉄砲で攻撃を行います。勝頼は驚いて天目山にこもろうとしましたが、兵士は殆ど逃げてしまい、従ったのはわずかに41人という有様でした。やむを得ず田野というところの一民家に身を隠した勝頼でしたが、3月10日には織田軍に封じ込められてしまいました。

 

もはやこれまで…と覚悟を決めた勝頼は、信玄の遺言に従って、子の信勝に諏訪法性(すわほっしょう)の兜を譲り、形ばかりではありますが、武田の当主となった信勝のために祝宴を張ったそうです。

 

そして、3月11日の午前10時頃から織田軍3,000〜5,000人が攻撃を仕掛けてきました。三度目の波状攻撃で、辻弥兵衛(つじやへえ)率いる部隊が鉄砲による攻撃を始めたので、勝頼らは自害しました。勝頼37歳、北条夫人19歳、信勝16歳でした。

 

武田氏は、清和源氏に祖をもつ甲斐源氏の棟梁で、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)から信玄までで19代、勝頼で20代目を数える名門の武家でした。歴代当主のあいだに浮沈はありましたが、信玄の代になって信濃・西上野その他に領国を広げ、戦国大名の雄として名をはせました。1573年(元亀4)年、信玄は上洛の途中に亡くなり、勝頼がその跡を継ぎましたが、わずか10年で滅び去ってしまったのでした。

 

この武田家の滅亡によって、織田信長は徳川家康に対して論功行賞として駿河一国を与えました。丁度、今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の時代、そしてその場所での出来事でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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