11月22日 <新井白石、宣教師シドッチに世紀の尋問(1709年=宝永6)>

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308年前のこの日、その頃幕政中枢に参画していた学者の新井白石は、不法入国したイタリア人宣教師のシドッチを尋問しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

シドッチは、正しくはGiovanni Battista Sidotti(ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ)といい、まぁシドッチつうのは些かなまっているかもしれませんね。

イタリアのシチリア島に生まれた宣教師で、出自は貴族だそうです。東アジアに派遣された宣教師らの報告から、日本における宣教師や現地の信徒(切支丹)の殉教を知り、極めて限定的な開国状態であった日本での布教を志したシドッチは1708年(宝永5)10月、頭の月代(さかやき)を剃り、和服帯刀姿で屋久島に上陸しました。

空腹と喉の渇きによってシドッチは疲れ切っていました。一夜が明けて、彼は島の木こりに発見され、水や食事を貰いました。シドッチは、その恩に謝して、マニラから持ってきた日本の金を与えようとし、しきりに日本語で話しかけたのですが、日本語は全く通じませんでした。やがて、土地の役人に連絡され、シドッチは薩摩藩の監視下に入りました。

薩摩藩は、その処置を幕府にうかがい、彼は長崎へと送られ、そこで調べを受けました。

 

そして翌1709年には江戸の茗荷谷にあった切支丹屋敷に護送されました。同年のこの日、幕政の中枢にいた儒学者の新井白石は、命を受けて屋敷に赴きシドッチを尋問しました。屋久島上陸以来1年以上にもなる不自由な生活に加え、長崎から江戸までの囚人駕籠での旅によって、さすがのシドッチも肉体的にヨレヨレでした。

尋問の際も、シドッチは全く立つことも出来ず、2人の侍に両方から支えられてようやく白石の前に出てきたくらいでした。白石はシドッチのために椅子を用意してやり、そして寒さを防ぐために、さらに袷(あわせ)を重ねることをすすめました。

 

こうして世紀の尋問が始まりました。

さすがに新井白石は「東雅(とうが)」を著して言語学にも鋭い見識をもった学者でした。幾度か質問を繰り返しているうちに、通詞なしでも対談が出来るほどになっていたそうです。

 

この尋問で、白石はシドッチの学識の深さに驚いたようです。地名を尋ねると、コンパスを使用して正確にその位置を示し、答えることはまことに容量を得ていたのです。言語についてもヘブライ・ラテン・ギリシャ語について、更には天文・地理・方術、技芸はもとより、ヨーロッパ諸国の治乱興亡の歴史に至るまで、白石は学習意欲を刺激されまくりだったそうです。

白石は、この尋問でヨーロッパの学問に対して目を開かれた思いだったようです。その感動が、のちにシドッチとの尋問の経緯をもとに「西洋紀聞」を、そしてシドッチから得た情報をオランダ商館員に確認して「采覧異言」を著しました。限定的な開国政策をとってから70年目にして現れた1人のイタリア人宣教師を相手に学んだヨーロッパの知識を、胸にしまっておくことなしに残した警世の書とも言えましょう。そして、これは、のちに徳川吉宗の時代に洋書の禁を緩和させ、洋学勃興の道を開いた貴重な書物でありました。

 

シドッチは、その後切支丹屋敷に留め置かれ、衣食の費用を幕府から支給され、飢渇の心配がないように従僕をつけられるという破格の待遇を受けましたが、シドッチ自身の望んでいた布教活動はできませんでした。しかし、1714年(正徳4)に従僕の長助・はる夫婦に授洗したため、地下牢に移され、衰弱のため46歳で世を去りました。

 

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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