11月21日 <空白の一日、江川事件発生(1978年=昭和53)>

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ドラフト会議の前日であった1978年(昭和53)のこの日、読売巨人軍は野球協約上の盲点を突いて江川卓選手と入団契約を結びました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

これは、「江川事件」とか「江川騒動」「江川問題」「空白の一日」などと呼ばれる出来事です。

 

江川卓さんは、プロ入りする前から大活躍をしていました。栃木の作新学院時代も持ち前の速球と切れの良いカーブとを武器に、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回、春の甲子園における大会通算最多奪三振記録などの数々の記録を打ち立てました。

そして進学した法政大学に於いても、江川は1年目からエースとして活躍し、東京六大学史上2位の通算47勝、同じく1位となる完封数17、同じく2位の通算奪三振数443個(当時1位、現在2位)、ベストナイン選出6回など輝かしい記録を残しました。ちなみに、法政大学に進学した江川の第一志望は慶應義塾大学法学部政治学科だったそうです。

 

1977年(昭和52)、大学4年となった江川は巨人への入団希望を表明しており、巨人側もまた1位指名の方針を固めていました。ところが同年11月に行われたドラフト会議で江川を指名したのはクラウンライターライオンズ(現在の西武ライオンズの前身)でした。

クラウンライターライオンズへの入団を希望しなかった江川は、1978年(昭和53)に、大学卒業と同時に作新学院職員という身分でアメリカの南カリフォルニア大学に野球留学しプロ野球浪人といった形でその年を過ごす羽目になりました。

そうして迎えた1978年(昭和53)のドラフト会議…その2日前の11月20日に、江川はアメリカ留学を切り上げて帰国してきました。その翌日となる同年のこの日の午前に、巨人は江川とは衆議院議員の船田中事務所で電撃入団契約を締結したのでした。野球協約上のドラフト外選手として取り扱われる一日を狙って決行したものでした。

 

翌11月22日のドラフト会議では、巨人は会議をボイコットし、江川は阪神タイガースに1位指名されました。プロ野球界は大紛糾です。

結局、翌年1月になって阪神の江川と巨人の小林繁投手との交換トレードで決着をみた出来事でした。

 

色々言われた江川投手でしたが、小生にとっては紛れもなく大投手でした。チームメイトの協力が得られれば135勝で終わる選手ではなかったのではないか…と思っています。それと、1978年のシーズンをプロ野球で送れなかったことも悔やまれます。こうした若い、才能のあふれる選手が希望の職場で働けるようになると良いですねぇ。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

今日はここまでです。

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