1863年(文久3)のこの日、江戸幕府第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)からの直命で。勝海舟は神戸海軍操練所の開設の用掛に任じられました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸時代末期になると、幕府は通商条約調印により対立した朝廷との関係改善をはかり、それによって幕府批判勢力をおさえ込み、さらに条約問題で分裂した国論を統一して幕府の権威を回復させるために、朝廷(公)と幕府(武)が強調して政局を安定させようとする公武合体政策が進められました。
この公武合体政策が幕府や雄藩藩主層を中心に進められたのと並行して、下級藩士を中心とする尊王攘夷派の動きも活発化していきました。この尊王攘夷論は、尊王論と攘夷論とを結びつけた後期の水戸学の思想でした。尊王論それ自体は将軍の支配の正当性を権威付けるものでしたが、対外的な危機が迫ると攘夷論と結びつき、欧米列強の圧力に屈服して開国した幕府の姿勢を非難して、実践的な政治革新思想となっていきました。
尊王攘夷派の中心になった長州藩も、はじめは公武合体運動を進めていましたが、1862年(文久2)に中下級藩士の主張する尊攘論を藩論とし、朝廷内部の尊攘派の公家とも結んで、京都で活発に動いて政局の主導権を握りました。
こうした攘夷論が盛り上がってくると、幕府は摂海(大阪湾)の防備を重要視し、1863年(文久3)に兵庫や西宮に砲台の築造を決定しました。
同年4月、上洛中の江戸幕府第14代将軍徳川家茂は順動丸に乗って兵庫・西宮の巡検を行い、生田川河口(神戸村内)に上陸しました。そのときに随行していた勝海舟は、家茂に洋式軍艦を操れる海軍兵士の養成を訴えました。
そして、この建言が受け入れられて、その翌日となる1863年(文久3)のこの日、家茂の直命で神戸海軍操練所設置が決まり、勝海舟はその用掛に任じられました。海舟は、坂本龍馬らとともに準備をすすめ、翌1864年(元治元)5月14日に開設することになるのでした。
その神戸海軍操練所の開設の話は、また別項で、ということにしますね。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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