4月28日 <三善清行、意見封事十二箇条を奏上(914年=延喜14)>

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914年(延喜14)のこの日、その年の2月15日に醍醐天皇が諸臣の意見を求めたのに応じ、三善清行は意見封事十二箇条を奏上しました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

意見封事(いけんふうじ)とは、臣下が意見書を密封して天皇に上陳することをいいます。今日ご紹介する出来事の時代であれば、密封された意見書は少納言が受理し、中をあらためずに天皇に奏聞する、というルートで提出されるのでした。

 

今日ご紹介するのは、914年(延喜14)2月15日に醍醐天皇が、公卿や五位以下の京官および国司に出された徴召の詔に応えて、参議三善清行(みよしきよゆき)は同年4月28日に、序論と十二カ条の建議からなる意見封事を提出しました。

 

当時直面していた政治的・社会的矛盾を的確に指摘しつつ、その打開策をものべたもので、律令政治の衰退のありさまを説く序論においては、国家財政の衰微とその原因としての課丁の減少を備中国下道郡邇磨(にま)郷(現在の岡山県吉備郡真備町)を例にとって述べています。

そののち、以下のような諸点について論じています。その事書のみを列記してみましょう。

  • 第一条:応(まさ)に水旱を消し豊穣を求むべき事
  • 第二条:請ふらくは奢侈を禁ずべき事
  • 第三条:請ふらくは諸国に勅して見口数に随ひ口分田を授くべき事
  • 第四条:請ふらくは大学生徒の食料を加給すべき事
  • 第五条:請ふらくは五節の妓員を減ずべき事
  • 第六条:請ふらくは旧に依り判事員を増置すべき事
  • 第七条:請ふらくは平均して百官の季禄を充て給すべき事
  • 第八条:請ふらくは諸国の少吏ならびに百姓の告言訴訟に依りて朝使を差し遣はすことを停止すべき事
  • 第九条:請ふらくは諸国勘籍人の定数を置くべき事
  • 第十条:請ふらくは贖労人をもつて諸国検非違使および弩師に補任することを停むべき事
  • 第十一条:請ふらくは諸国僧徒の濫悪および宿衛舎人の凶暴を禁ずべき事
  • 第十二条:重ねて請ふらくは播磨国魚住泊を修復すべき事

 

原文は漢文でかかれており、Wikisourceで見られます。

意見十二箇條

 

地方官の体験をもつ文人貴族の立場から、当時の政治的社会的な諸矛盾を的確に指摘し、その打開策を論述しており、意見封事のなかては 最もすぐれた内容をもつものですが、現実の政治にはほとんど反映されませんでした。それは、その実現がもはや不可能だったからです。

 

ここで、三善清行は、律令制の原理原則に立ち返ることが必要と説きますが、律令制度における財政収入の根幹である戸籍がすでに実態とはかけ離れたものとなってしまってたのです。課税される「調」「庸」は男子にしか課せられないのですが、それを避けるために男子の数を作為的に少なくする、といったようなことが通常に行われていたのです。どのため、戸籍に基いて班田制を実施できるベースが崩れてしまっていたのが当時の実情でした。

 

この時期の政治は「延喜・天暦の治」とうたわれ、後世に天皇親政の理想的時代と讃えられたものでしたが、日本史的には長い間かけて作り上げた律令体制が大きく変革を遂げた時期でもありました。

 

それまでは、中央政府の監督のもと、国司が行政にあたり、郡司が税の徴収や文書作成を行ってきましたが、この時期以降は国司に一定額の税の納入を請け負わせ、その管理領地内の政治を委ねる国司請負の方針を積極的に取り始めました。すなわち、地方政治の運営に関しては国司の裁量権限が大幅に大きくなっていったのがこの時期でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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