1877年(明治10)のこの日、幕末激動期、そして明治維新の変革を引っ張った立役者の1人木戸孝允が没しました。西南戦争のさなかであり「西郷、もうよいではないか」とうわ言を言って没したそうです。
これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
「維新の三傑」という表現があります。
数多くの明治維新の指導者たちのなかで、とくに中心的役割を果たした3人、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允のことを指します。
木戸孝允は明治維新期には、長州閥・開明派の巨頭として数々の改革にあたりましたが、政府首脳と意見が合わないこともあり1876年(明治9)には参議を辞任しています。大久保利通への権力集中を問題視していたのが辞任の理由の一つにあったようです。
その木戸孝允の最後を看取ったのは大久保利通であり、表記の「西郷、もうよいではないか」の言葉は大久保の手を握り呟いたそうです。
今回の記事では、その維新の3傑について人物像をみてみましょう。
まず、来年の大河ドラマの主人公でもある西郷隆盛です。
維新の3傑なかでも西郷は大きな度量、部下に対する深い情愛、勇気と情熱、簡素な私生活どから広く世人の敬愛を得ていました。
彼は清濁合わせ呑む包容力に富んだ政治家で、情にもろく、いわば日本人好みの性格の持ち主だったようです。
西南戦争における悲劇的最期と相まって、現在にいたるまで、最も庶民に人気のある人物といえましょう。
しかし、新しい国内体制の緻密な建設計画を進めることは不得意 であり、西郷の積極的な役割は、1871年(明治4)の廃藩置県をもってほぼ終わったといえるでしょう。
ついで、木戸孝允のライバル? 大久保利通です。
大久保は征韓論・台湾出兵をめぐって西郷・木戸が下野したのちも、ただ1人政府の中心となって大きな権力をふるい、相つぐ近代化政策により日本における近代国民国家建設の基礎を築いた立役者です。
最後まで政権の座にあったこともあって、西郷に比べると庶民的な人気は乏しく、反対派からはしばしば専制政治家として激しい非難をあびました。
しかし、ときとしては冷酷と思えるほど沈着・冷静であり、優れた決断力と明断な頭脳とを備えた剛毅果断(ごうきかだん)な人となりと、広い国際的視野に立ち現実主義に徹した政治的態度は、多くの反対を押し切って大胆な改革を実行しなければならない変革期の政治家にふさわしいものでした。
また、出身藩にこだわらず 多くの有能な人材を登用したことも、彼の業績の一つといえましょう。
最後に、今日の出来事の主である木戸孝允です。
木戸は最も知的な感じの強い開明的な政治家で、一種、理想家肌のところがあり、その斬新で優れた着想は、維新の改革に大いにに貢献しました。
しかし、性格的にはやや狭量で、健康にも恵まれず、とくに晩年は相つぐ政治的激動のなかにあって病気がちで、明治政府部内での勢力は、大久保には及びませんでした。
同じ長州藩出身で、木戸のもとで政治家として成長した伊藤博文や井上馨も、木戸の晩年には、むしろ大久保利通に接近していました。
この3人、幕末の大政奉還の際、西郷が41歳、大久保が38歳、木戸が35歳とバリバリの働き盛りの年齢でした。ちなみに伊藤博文は同時期27歳。こうした若手から中堅の年齢にあたる人々が幕末から明治初期の大きな変革を成し遂げていったんですねぇ。
最後に、ライバルであった大久保利通の木戸孝允評がWikipediaにありましたので以下に引用します。
「台湾の一条については所見を異にしたけれども、それは行き掛かり上のことだ。(中略)自分の本来の政治上の考えは、全く木戸君の識見及び知識に符合しておる」
(Wikipedia「木戸孝允」から引用)
相認める間柄だったんですねぇ。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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