3月22日 <薩摩藩の留学生、英国へ密航(1865年=慶応元)>

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1865年(慶応元)のこの日、西欧の科学技術を学ぶため薩摩藩の留学生がイギリス密航に出発しました。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1865年(慶応元)3月22日、薩摩国串木郷の羽島に一隻の汽船が寄港しました。イギリスの商船ガラバ号です。その船に19人の薩摩藩士が乗り込み香港に向けて出航していきました。

 

薩英戦争に敗れた薩摩藩では、富国強兵が必要であると考えていました。五代友厚(ごだいともあつ。五代才助とも)は、軍事力を急速に強化するためにはイギリス・フランスへ留学生を派遣し、西欧の科学技術を学ぶことが必要である!と主張し、この意見が藩庁に承認されたのです。

 

ガラバ号に乗り込んだのは家老新納刑部(にいろぎょうぶ)を統率者、五代友厚・松木弘安(まつきこうあん。寺島宗則とも)を監督とし、16名の留学生でした。このイギリスへの派遣は、幕府の認可を得ないで行われました。すなわち、密航です。そのため、全員が変名を用い、幕府の警戒の目をくらますため長崎からの出発を避け、羽島沖からの出発としました。

 

ロンドンに到着した留学生たちは、1年間ほどロンドン大学に入学し西洋文明の成果を学びました。

 

また、五代や松木はイギリスばかりでなく、欧州各国を視察し、日本の現状を思い知り、そして次の様に批判しました。

 

日本は現在『井の中の蛙』といったありさまで、だれもみな世界情勢についての認識を持っていない。現在の日本のとるべき方策としては、天下の諸藩が志を一つにして国政の大変革を行い、富国強兵をおしすすめなければいけない。すなわち統一国家を結成することがなによりも必要である。

 

彼らのそうした意見は、後に維新の三傑と呼ばれた大久保一蔵(大久保利通のこと)に受け入れられ、大久保はこの意見を巧みに取り入れながら新しい統一国家形成のために行動していくのでした。大政奉還の2年半ほど前、夜明け前の日本で、イギリスに密航留学生が派遣された、という出来事でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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