12月15日 <空海が、綜芸種智院を開く(828年=天長5)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

 

828年(天長5)の今日、空海は綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創設しました。

 

この時代の教育機関としては、奈良時代に整備された仕組みが機能していました。官吏養成のために中央に大学(だいがく)、地方に国学(こくがく)が作られました。その入学者は、大学の場合は五位以上の貴族の子弟や朝廷に文筆で仕えてきた東(やまと)・西(かわち)の史部(ふひとべ)の子弟、また国学の場合は郡司の子弟を優先とする限定的なものでした。学生(がくしょう)は、大学を修了し、さらに試験に合格してようやく官人として出仕することが出来たのです。

 

平安時代になると、文学が栄えることが国家繁栄につながるとする文章経国(もんじょうけいこく)の思想が重んじられたこともあり、大学でも学問が盛んになりました。儒教を学ぶ明経道(みんきょうどう)のほか、中国の歴史・文学を学ぶ紀伝道(きでんどう:文章道…もんじょうどうとも言います)が重要視されました。有力な貴族は一族の子弟の教育のために、大学別曹(だいがくべっそう)を設けました。これは大学に付属する寄宿施設のようなもので、学生たちは学費の支給を受けて、書籍を利用しながら大学で学びました。和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原氏や皇族の奨学院などが有名です。

 

空海が創設した綜芸種智院は、そうした儒教的教養を身につけた官吏を養成する目的をもつ学校とは異なり、庶民にも門戸を開いたものでした。

 

綜芸種智院は、空海が藤原三守(ふじわらのみもり)から平安京左京九条の邸宅の寄進を受けて、東寺のそばに建てた学校です。828年(天長5)に空海が作った、設立趣意書ともいうべき「綜芸種智院式并序」(「性霊集:しょうりょうしゅう 巻10」)によれば

  1. 内典(仏典)を僧、外典(世俗書)を俗人に教授させ、 僧が外典を、俗人が内典を学ぶことも奨励する
  2. 俗人の学生に対して身分差別をしない
  3. 教 員・学生ともに給食が与えらる

といった特長を持っていました。この学校は、三教院とも呼ばれていますが、この三教が儒教・仏教・道教を指すのか、顕密二教および儒教を指すのかについては定説はありません。しかし、当時の大学では明経道(儒教)と紀伝道がメインでしたし、寺院の教育では仏教メインだったので、空海が構想したこの学校の教育課程は、仏教・儒教はもちろん、インドの諸科学などをも含み、全東アジアの諸学・諸思想を総合する壮大なものでした。

 

当時は、上層民衆を下級官人に採用する政策も採られていたので、庶民の子弟の入学にも大きく門戸が開かれた学校があったのは、当時としては画期的なことだった、といえましょう。

 

ところが、こうした目論見がどの程度実現されたか、教育の実態や学生の実際の身分・階層、などその実態は殆ど不明です。この学校が廃校となる際、845年(承和12)に書かれた「実恵奏状」(『東寺文書』)によりますと、経営財源としての荘園が設定され、また教科書なども用意されていたことがわかります。この頃迄は学校としての機能がよく保持されていたと思われますが、この年、院の施設は売却され、その収入で丹波国大山の田畠が東寺伝法会の財源として買得されて、東寺領大山荘が成立したそうです。

 

この綜芸種智院が、20年足らずの短期間に廃校となった原因については諸説があり、空海の構想の非現実性、後継者の無理解や財政難、政府の下級官人採用策の転換による入学者減などが考えられていますが、いずれも推測の域を出ていません。

 

今日はここまでです。

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