1927年(昭和2)のこの日、田中義一内閣は金融恐慌を鎮めるためモラトリアムを発動しました。
これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
第一次世界大戦中の日本での著しい好景気も、大戦が終わってまもなくすると、バブルのように消えてしまいました。
日本の資本主義は戦争を通じてしばしば発展したため、軍事産業の占める比重が大きく、そのうえ、国民の購買力は十分とはいえず、国内市場がせまく、つねに海外市場に依存するという不安定な構造をもっていました。
第一次世界大戦が終わって、列強の生産力が回復してくると、輸出は後退し、1919年(大正8)から貿易収支は輸入超過に転じてしまいます。とりわけ、重化学工業は輸入品が増加し、国内の生産を圧迫しました。1920年(大正9)には株式市場が暴落し、また綿糸・生糸の売れ行きが不振となり、その相場が下落しました。そのため、紡績・製糸業は操業を短縮するなどの不況に見舞われてそまいました。これを戦後恐慌と呼んでいます。
そうした厳しいい市況のなか、1923年(大正12)9月には未曾有の大震災、関東大震災が首都東京を襲いました。
京浜地区では、工場や事業所のほとんどが倒壊あるいは焼失し、日本経済は大きな打撃を受けました。このとき、銀行手持ちの手形が大量に決裁不能になり、その後、慢性的不況が続くなかで、その決裁はなかなか進みませんでした。
政府はその状態を打開すべく決裁不能となった震災手形に対して、震災手形割引損失補償令で日本銀行から特別融資を行わせ、その合計額は4億3082万円に達しました。しかし、なお1926年(昭和元)末時点で2億680万円が未決裁となっていました。
そこで憲政会の若槻礼次郎内閣は、震災手形を処理しようと考え、その法案を議会にはかりましたが、その過程で、いくつかの銀行でこげつきの不良貸付が多く、経営状態が悪いことが暴露され、1927年(昭和2)3月、銀行への激しい取付け騒ぎがおこりました。
これがい わゆる金融恐慌の発端でした。
同年4月に入って台湾銀行・十五銀行など32の中小銀行が休業するに及び、金融恐慌は全国的なものとなり、市場は混乱の極みに達しました。
若槻内閣は、鈴木商店に対する巨額の不良債権をかかえた台湾銀行の救済をはかる ため、緊急勅令を発布しようとしましたが、枢密院の反対でこれが否定されたので、ついに総辞職しました。
あとを受けて成立した立憲政友会の田中義一内閣は、高橋是清蔵相のもとで1927年(昭和2)4月22日に、3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発して全国の銀行を一時休業させ、日銀から20億円近くの非常貸出しを行ってどうにか恐慌を鎮めることができたのでした。
モラトリアムの発動は、日本では関東大震災後の1923年(大正12)につづき2度目の発動でした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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