4月22日 <北条貞時、平頼綱を討つ(1293年=永仁元)>

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1293年(永仁元)のこの日、鎌倉幕府の執権北条貞時によって討手をさしむけられた平頼綱(たいらのよりつな)は自害しました。平頼綱の乱(平禅門の乱とも)と呼ばれる出来事です。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

時は若干遡り、鎌倉幕府の執権が北条貞時の父親、北条時宗の頃のことです。

北条時宗が執権の時、幕府には時宗のほか2人の実力者が居ました。有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)と御内人(みうちびと)首座(内管領といいます)の平頼綱でした。この両者は勢力争いを続けていましたが、調停役をつとめていた時宗が1284年(弘安7)に33歳の若さで世を去ると、対立はにわかに激化し、翌1285年(弘安8)11月に、頼綱は兵を集めて泰盛一族を滅ぼしてしまいました。

この事件は、発生した月にちなんで霜月騒動(しもつきそうどう)と呼ばれています。

11月17日 <霜月騒動が勃発(1285年=弘安8)>

 

この霜月騒動ののち、頼綱は幕府の実権を握り専権を振るいました。しかし、次男飯沼助宗を将軍にしようとしているとの嫡子宗綱から密告があったのです。頼綱の専横を嫌う執権北条貞時は、1293年(永仁元)のこの日、討手をさしむけました。館はたちまち炎に包まれ、頼綱は鎌倉経師ケ谷(きょうしがやつ)で自害しました。そして助宗も討たれました。

嫡子宗綱は佐渡に流されましたが、まもなく召還され内管領となりました。

この平頼綱の乱以後、幕府の主導権は完全に貞時が握り、得宗専制を完成させたのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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