1900年(明治33)のこの日、12歳以上の男女混浴が禁止されました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸時代に入ると、大都市で銭湯が大衆化し、こうした銭湯においては、当初はまだ、男湯と女湯の区別はありませんでした。
また、銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にやらせる湯女風呂などが増加し、こうした湯女が私娼化したり売春の温床ともなっていたこともあり、江戸幕府はたびたび規制をおこなってきました。
古くは1652年(承応元)に江戸市中の風呂屋の営業時間を制限したり、また1791年(寛政3)には銭湯(湯屋)の混浴が禁止されたりしました。こうした規制により、湯屋の風紀を取り締まろうとしたのでした。それは、混浴自体に問題がある…という考え方ではなく、湯屋における売買春規制が目的でありました。
ところが、こうした混浴是認の風習に一石を投じる出来事がありました。
それは、1853年(嘉永6)のペリー来航でした。
ペリーが著した「日本遠征記」には以下の様に記されています。
「男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」
(「日本遠征記」から引用)
この様に、欧米の人々からみて、男女の着衣無しでの混浴は奇異に見えたようなんですね。
そして、明治維新になると日本にやってきたキリ スト教の宣教師たちが、混浴をあからさまに非難しはじめました。日本の混浴の風習は彼らの考える文明に反しており、野蛮の極みだと考えたのでした。
明治新政府は、欧米への体裁を気にし、宣教師的価値観に迎合して、混浴禁止の措置をくりかえし、都市部では取締りが強化されていきました。
しかし、昔からの風習はすぐには改まらない状況が続き、そうして1900年(明治33)5月24日、12歳以上の男女混浴が禁止されました。それでもなお、地方の温泉地などの多くでは混浴が当たり前という時代が昭和30年代まで続くのでした。
しかしながら、欧米人でも宣教師的な偏狭な価値観にとらわれることのなかった人物も存在していました。
たとえば、大森貝塚発見で知られるモース博士もそうした意見の持ち主でした。
彼は混浴している日本人こそ文明て、それを嫌悪している欧米人のほうが本当は野蛮なのだと非難するのでした。
明治十年代の日本に滞在して東京大学の教授もつとめたモースは、日光の中禅寺の奥の湯で混浴を体験し感銘を受けました。
そこでは、若い娘も年寄りもこだわりなく道のすぐ側にある湯にはいり、混浴の男はもちろん、道をゆく男もたがいにまったく気にもとめていません。 裸を見ると劣情を催すというのは欧米人宣教師が勝手に決めているのであって、つまり彼等こそが野蛮であり、混浴で平然としている日本人こそが文明だというのがモースの持論でした。
しかし、このモースのような考え方を日本政府は採用できませんでした。日本の近代は「欧米が文明」という流れの中で発展するべきだと決めていたのでした。
2.他の年、この日の記事
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今日はここまでです。
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