7月30日 <明治天皇の崩御(1912年=明治45)>

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1912年(明治45)のこの日)、近代日本の指導者でもあった明治天皇が崩御されました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

明治天皇は1904年(明治37)頃から糖尿病にかかられていました。さらに1906年(明治39)には慢性腎臓炎を併発され、1912年(明治45)に腸胃症にかかられ嗜眠・恍惚の傾向がみられ、尿毒症と診断されました。

1912年(明治45)7月20日に、宮内省より天皇陛下が尿毒症で重態だと官報号外で発表があり、それ以降ほとんど毎日、新聞は病状を克明に報道しました。この報せをきっかけに東京株式市場は「恐怖狼狽」のために大暴落し、また鳴り物や祭りは自粛、平癒を祈願する国民が皇居前につめかけました。

国文学者・俳人である沼波瓊音(ぬなみけいおん)は雑誌「俳味」9月号に「大いなる悲しみ」と題して次のように書いています。

「(新聞が掲げる二重橋前の写真には)素朴なる老媼(ろうおう)の地上に付している姿などがあった」また崩御前日の皇居前には「念仏の声も聞こえる。祓詞(はらいことば)を泣き声になって称(とな)ふるのも聞こえる、…号泣している者もある」

こうした国民の祈りもむなしく、明治天皇は同年のこの日、崩御されました。

 

その日の読売新聞の記事では

「天皇陛下、今30日午前0時43分崩御あらせらる。昨29日午後8時頃より御病状漸次増悪し、同10時頃に至り、御脈次第に微弱に陥らせられ、御呼吸は益々浅薄となり御昏睡の御状態は依然御持続遊ばされ、ついに今30日午前0時43分崩御遊ばさる」

と報じています。

 

「明治天皇記」にも

「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」

と記されています。

 

夏目漱石は「こゝろ」のなかで

「明治天皇が崩御になりました。そのとき私は、明治の精神が、天皇にはじまって、天皇に終ったような気がしました。もっとも強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは畢竟(ひっきょう)時勢おくれだという感じが、はげしく私の胸をうちました。」

と書いています。

 

Wikipediaをみたところ、おや…と思う記述が2つありましたので、以下に引用します。

宮内省は崩御日時を7月30日午前0時43分と公表したが、当時宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分である。これは登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝(新天皇)になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせ、翌日午前0時43分と定めたという。

 

天皇崩御に際してその側にいた皇族の梨本宮妃伊都子は、この間の様子を日記に克明に記している。伊都子の日記によれば、伊都子ら皇族は二十八日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機した。二十九日午後十時半頃、奥(後宮)より、「一同御そばに参れ」と召され伊都子らが部屋に入ると、皇后、皇太子、同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていた。天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしたが、時計が10時半を打つ頃には、天皇の声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなった。2,3分すると、にわかに天皇が低い声で「オホンオホン」と呼び、皇后が「何にてあらせらるるやら。」と返事をしたが、そのまま音もなく眠るように亡くなった。

(Wikipedia「明治天皇」から引用)

この崩御の時刻を2時間遅らせた、というのは興味深く、また梨本宮妃伊都子の日記の記述は生々しいですね。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっており、この項は無しです。

 

今日はここまでです。

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