1895年(明治28)のこの日、韓国公使三浦梧楼(みうらごろう)が中心となって計画したクーデターが起き、京城内で閔妃が暗殺されました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
19世紀末期、日本がようやく近代国家を形成したころ、欧米先進資本主義諸国は早くも帝国主義段階に突入しようとしていました。
諸列強は生産物の販路を海外に広げ、また、直接に資本を輸出して利益を収めるためにこぞって積極的な対外進出政策をとって植民地獲得を競い合い、その矛先は、アジア・アフリカなどの発展途上諸地 域に向けられました。
日本にとって、とくに脅威だったのはロシアの動きでした。日本は日清戦争によって「朝鮮の独立」を清国に認めさせ、“利益線”たる朝鮮から清国の勢力を排除することに成功しましたが、三国干渉による日本の威信低下に乗じてロシアが朝鮮に勢力を伸ばし、1895年(明治28)7月、親露政策の閔妃が政権を取りました。
そこで、同年10月、日本公使三浦梧楼や日本の軍人・壮士らが中心となり、大院君を擁立してクーデタを強行し、閔妃政権を打倒して親日派政権を樹立させたのでした。このクーデターは、日本人が表にでるのは得策ではないと考え、主として韓国人に実行させました。そして彼等は京城内に乱入し、閔妃を亡き者にしたのです。閔妃暗殺事件と呼ばれている事件です。
しかし、翌1896年(明治29)2月、三度目の政変がおこって、朝鮮国王はロシア公使館に移り(露館播遷。ろかんはせん)、ロシアを後ろ盾とした政権が発足し、多くの親日派要人が処刑されました。その後、日露両国は山県・ロバノフ協定、西・ローゼン協定などを結んで朝鮮(韓国)における利害の調整をはかりましたが、韓国を勢力下に収めようとする日本の政策は達成されず、韓国問題をめぐる日露の対立はしだいに深まっていったのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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