10月9日 <老中松平乗邑、罷免される(1745年=延享2)>

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今日という日はどんな日でしょうか?

日本史の中の出来事を覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.出来事ピックアップ

 

1745年(延享2)の今日、徳川吉宗の「享保の改革」を支えた老中松平乗邑(まつだいらのりさと)が罷免されました。

 

2.解説

 

名門大給(おぎゅう)松平家の嫡流である松平乗邑が異例の大抜擢を受けて老中、佐倉藩主になったのは1723年(亨保8)で、38歳のことでした。

乗邑の父は肥前国唐津藩主の松平乗春で、1690年(元禄3)に遺領を相続しました。

 

頭脳明晰であった乗邑は大岡忠相(おおおかただすけ)・神尾春央(かんおはるひで)といった人材を存分に活かし、農政・財政の責任者として享保の改革を推進し、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗の期待に応えました。

 

1745年(延享2)9月25日、吉宗は退隠して徳川家重に将軍職を譲り、その際に、自分のために15年間、寝食を投げ打って尽くしてくれた乗邑に1万石を加増しました。吉宗は、その乗邑の永年にわたる労苦を慰労するつもりでもあったのです。

 

ところが、その2週間ほどあとの同年10月9日(今日ですが…)、第9代将軍の徳川家重は乗邑を罷免し、翌10日には加増1万石も召し上げ、乗邑が賜っていた屋敷まで取り上げてしまったのです。それまで自らの屋敷を持たなかった乗邑は、このために親戚の家に転がり込んで居候をしなければならなくなり、隠居・蟄居と相成りました。

吉宗は、その時点で、まだ大御所として健在であり、この罷免は世間をあっと言わせました。

その理由について『徳川実紀』には本件に関して次の様に記し、

「御代あらたまりてわずかに二十余日にして、俄にかく御かうじ(叱り)蒙り、加秩(加増)の所領までめし収められしは、いかなる故にやとうたがひをいだきけるも少からず。されどその事の仔細は、秘して伝へざればしるものもなし」

(『徳川実紀」より引用)

よっぽど秘密のことが要因としてあったのでしょうが、罷免の理由ははっきりしていない、ということです。

 

倹約を範とした亨保改革への世人の批判を乗邑一身に背負わせてかわそうとしたのではないか? と言われています。

 

3.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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