1892年(明治25)のこの日、東京・京橋の朝報社から「万朝報」が創刊されました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
明治時代を通じて新しい文化は国民の間に徐々に広まって行きましたが、その浸透に大きく貢献したのは新聞・雑誌などのジャーナリズムの発展でした。
ジャーナリズムは江戸時代から庶民の間に広まっていた読売瓦版(よみうりかわらばん)、あるいは戊辰戦争の最中に創刊された民間の「もしほ草」「中外新聞」や、政府の「太政官日誌」などが、その先駆として位置づけられています。
明治時代に入り、1870年(明治3)には初の日刊新聞「横浜毎日新聞」、続いて1870年代には「東京日日新聞」「日新真事誌」「郵便報知新聞」「朝野新聞」「読売新聞」「東京曙新聞」「朝日新聞」「毎日新聞」といった新聞や雑誌が次々と創刊されました。
今回の記事でご紹介する「万朝報」もそうした新聞の一つで、1892年(明治25)のこの日、黒岩涙香(くろいわるいこう)が東京の京橋にあった朝報社から創刊した新聞なのです。
赤紙に印刷されたので赤新聞とも呼ばれました。
弱きを助け強きをくじくというモットーによる舌鋒の鋭さと安価がうけて、東京で1、2位を争う有力紙となりました。
最初は読物などを中心とした通俗新聞としてスタートしましたが、明治30年代には幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三らが記者として論陣を張り、帝国主義・軍国主義に反対して、青年層の人気を得ました。
しかし同紙が日露開戦是認に転じた1903年(明治36)にこの3人が退社し、大正初期は桂内閣・山本内閣打倒で先頭に立ちましたが、大隈内閣擁護は読者の支持を得られず、1920年(大正9)に黒岩が他界した後は経営不振が続き、1940年(昭和15)新聞統合によって「東京毎夕新聞」と合併して消滅してしまいました。
最盛期の発行部数は25万部でした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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