1909年(明治42)のこの日、山県有朋は枢密院議長に任命されました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
枢密院は憲法草案審議のため1888年(明治21)4月に設置された機関で、大日本帝国憲法下の天皇の最高諮問機関でした。国家に功労のあった長老級の政治家を集めて枢密顧問官とし、議長・副議長各1名、および枢密顧問官12名(のちに増員)がおかれました。
憲法上の疑義、憲法付属法令、緊急勅令などについて審議する広範な権限を持っていましたが、のちには、政府と衝突して内閣を総辞職させたこと(1927年の金融恐慌時の第一次若槻内閣)もありました。
この枢密院の初代議長には伊藤博文が任命され、それ以降藩閥政治家の有力者が任命され、1947年(昭和22)5月2日に枢密院が廃止されるまで23代、16名の議長が任命されました。
歴代議長
- 伊藤博文:1888年(明治21)4月30日 – 1889年(明治22)10月30日
- 大木喬任:1889年(明治22)12月24日 – 1891年(明治24)6月1日
- 伊藤博文:1891年(明治24)6月1日 – 1892年(明治25)8月8日
- 大木喬任:1892年(明治25)8月8日 – 1893年(明治26)3月11日
- 山縣有朋:1893年(明治26)3月11日 – 1894年(明治27)12月18日
- 黒田清隆:1895年(明治28)3月17日 – 1900年(明治33)8月25日
- 西園寺公望:1900年(明治33)10月27日 – 1903年(明治36)7月13日
- 伊藤博文:1903年(明治36)7月13日 – 1905年(明治38)12月21日
- 山縣有朋:1905年(明治38)12月21日 – 1909年(明治42)6月14日
- 伊藤博文:1909年(明治42)6月14日 – 1909年(明治42)10月26日
- 山縣有朋:1909年(明治42)11月17日 – 1922年(大正11)2月1日
- 清浦奎吾:1922年(大正11)2月8日 – 1924年(大正13)1月7日
- 濱尾新:1924年(大正13)1月13日 – 1925年(大正14)9月25日
- 穂積陳重:1925年(大正14)10月1日 – 1926年(大正15)4月8日
- 倉富勇三郎:1926年(大正15)4月12日 – 1934年(昭和9)5月3日
- 一木喜徳郎:1934年(昭和9)5月3日 – 1936年(昭和11)3月13日
- 平沼騏一郎:1936年(昭和11)3月13日 – 1939年(昭和14)1月5日
- 近衛文麿:1939年(昭和14)1月5日 – 1940年(昭和15)6月24日
- 原嘉道:1940年(昭和15)6月24日 – 1944年(昭和19)8月7日
- 鈴木貫太郎:1944年(昭和19)8月10日 – 1945年(昭和20)4月7日
- 平沼騏一郎:1945年(昭和20)4月9日 – 1945年(昭和20)12月3日
- 鈴木貫太郎:1945年(昭和20)12月15日 – 1946年(昭和21)6月13日
- 清水澄:1946年(昭和21)6月13日 – 1947年(昭和22)5月2日
上のリストをご覧になると判るように、複数回議長に任命された政治家も居ますね。
1909年(明治42)のこの日、山県有朋は自身3度目となる枢密院議長に任命されました。この3回というのは伊藤博文と並んで最多記録です。
山県有朋は長州閥の中心として陸軍を握り、政党の進出を阻止することにつとめました。この枢密院議長への任命は、山県の権勢をさらに強める結果となったのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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