11月23日 <北条時頼、出家する(1256年=康元元)>

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761年前のこの日、北条時頼は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を戒師として最明寺で出家しました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

卓越した指導者であり、将軍独裁の政治を推進していた鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が、1199年(正治元)1月に53歳で世を去ったのち、わずか20年後の1219年(承久元)1月に、今度は第3代将軍の源実朝が鶴岡八幡宮の社頭で暗殺されてしまい、ここに源氏の正統は3代で断絶してしまいます。

この頃、幕府の実権は執権として権勢を振るっていた北条義時でした。

当時は、我が国の支配構造は朝廷と幕府との二元的な支配の様相を呈していましたが、1221年(承久3)に後鳥羽上皇とその近臣らが鎌倉幕府を打倒しようとして挙兵した承久の乱で幕府側が勝利を収めた結果、朝廷の権威は失墜し、幕府が優位に立っていきました。

 

そして、幕府の実権を握っていた北条氏は、本格的に執権政治を確立させていきました。

それまで政治・裁判の決断権は(基本的に)将軍にあったものを、北条義時の息子の北条泰時は、将軍からその権限を奪い、執権主導の政治体制に変えていったのです。

 

本日の記事の主人公である、北条時頼は、泰時の孫にあたります。1246年(寛元4)に執権となった時頼は、同年名越光時(なごえみつとき)、前将軍藤原頼経らの反対派を一掃し、さらに翌1247年(宝治元)には有力御家人の三浦氏を滅ぼして、政務の実権に北条本家の得宗家に集中していきました。

こうして政敵を打倒して政局を安定させた時頼は裁判制度の整備に努める一方、民衆の生活の向上を目指し、統治に全力を注ぎました。彼が目標として掲げたスローガンが素晴らしいんですよ。

 

「撫民(民衆を愛せよ)」

 

その時頼ですが、1256年(康元元)のこの日、蘭渓道隆を戒師として最明寺で出家し、時頼に恩顧を受けた御家人もまた、この日に出家しています。

最明寺は、時頼の出家の準備のために鎌倉に建立された寺でしたが、現在は廃寺となっています。

出家後、時頼は最明寺入道と称して、相変わらず実権を握り続けましたが、時の将軍であった宗尊親王(むねたかしんのう)を招いて、蹴鞠や競馬を行ったりしました。

Wikipediaに建長寺所蔵の北条時頼の画像があり、無断で借りてきましたので、以下に貼り付けておきますね。

<北条時頼像(建長寺所蔵) 出典:Wikipedia>

 

余談ですが…

時頼には面白い伝説が残っていましてね

「諸国を回って弱者の救済を図った」

のだそうです。

 

2.過去年の記事

過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。

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