468年前のこの日、松平領が今川義元によって実質的に支配されたことを受け、松平竹千代(のちの徳川家康)は駿河に今川家の人質として赴きました。
これは戦国時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
江戸幕府の初代将軍であった徳川家康は、三河国岡崎城主松平広忠の長男でした。
その徳川家康の幼名は竹千代と名乗っていました。
その竹千代は、他家の人質となるという、戦国時代の荒波に揉まれ翻弄された幼年時代を送りました。
1549年(天文18)、竹千代の父親の松平広忠は織田信秀から送り込まれた刺客の手にかかって命を落としてしまいます。広忠の死後、三河の松平領は今川義元によって実質的に支配されました。
そのため、同年のこの日、松平竹千代(当時8歳)は駿河に人質として赴きました。
ところが、この竹千代が人質となっていたのは、実はこれが初めてではありませんでした。
その2年前の1547年(天文16)にも竹千代は、数え6歳で今川氏への人質として駿府へ送られることとなりましたが、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られてしまったのです。そのため、竹千代はそのまま織田家の人質として2年間尾張国熱田の加藤順盛の屋敷で過ごすことになりました。
その竹千代に2年後に父・広忠が命を落としたのち、転機が訪れます。
今川義元が織田信秀の子・織田信広と竹千代の人質交換トレードを行い、その結果、竹千代は駿府に移されました。
竹千代は、この人質時代に禅僧太原雪斎(たいげんせっさい)から学問を学び、後の徳川家康となる素地が作り上げられてていったのでした。
1555年(天文24)3月、竹千代は駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って「次郎三郎元信」と名乗り、後に祖父・松平清康の偏諱をもらい「蔵人佐元康」と改めました。
松平元康が、今川家の人質という境遇から抜け出たのは、1560年(永禄3)5月に起こった桶狭間の戦いで今川義元が討死したのち、今川家が放棄した岡崎城に入って独自の動きを始めてからでした。
2.過去年の記事
過去には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。
- 2016年記事:—–
昨年は、記事作成をサボったみたいです。
今日はここまでです。
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